高田修 (サッカー選手)
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名前 | ||||||
カタカナ | タカダ オサム | |||||
ラテン文字 | TAKADA Osamu | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1970年7月28日(54歳) | |||||
身長 | 172cm[1] | |||||
体重 | 68kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
ユース | ||||||
1986-1988 | 機山工業高校 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1989-1992 | 読売ジュニオール | 55 | (7) | |||
1992 | ヴェルディ川崎 | 0 | (0) | |||
1993 | 清水エスパルス | 0 | (0) | |||
ヴァンフォーレ甲府 | ||||||
通算 | 55 | (7) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
高田 修(たかだ おさむ、1970年7月28日 - )は、日本の元サッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはミッドフィールダー。
来歴
[編集]機山工業高校を経て、読売ジュニオールに加入[2]。日本サッカーリーグ2部昇格後の1990-91シーズンには11アシストを記録し、アシストランキングの3位に入った[2]。
1992年、読売ジュニオールが日本プロサッカーリーグのヴェルディ川崎のサテライトチームとして再編されたことに伴い、同クラブに加入[3]。トップチームでの出場機会はなく、同シーズン限りで退団した[3]。
1993年のシーズン途中に清水エスパルスに加入し、サテライトチームでプレー[4]。その後はジャパンフットボールリーグのヴァンフォーレ甲府でプレーを続けた[5]。
引退後は山梨県南アルプス市を本拠地とする育成年代のサッカークラブ、トラベッソFCでコーチを務めている[6]
個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | リーグ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1990-91 | 読売Jr | JSL2部 | 27 | 6 | 1 | 0 | |||||
1991-92 | 10 | 28 | 1 | 1 | 0 | ||||||
1992 | V川崎 | - | J | - | 0 | 0 | |||||
1993 | 清水 | 0 | 0 | 0 | 0 | ||||||
通算 | 日本 | J | 0 | 0 | 0 | 0 | |||||
日本 | JSL2部 | 55 | 7 | 0 | 0 | ||||||
総通算 | 55 | 7 |
脚注
[編集]- ^ a b 「Jリーグ・カップ登録メンバーリスト」『サッカーマガジン』 1992年10月号、ベースボール・マガジン社、88頁。
- ^ a b c 日本サッカーリーグ編『日本サッカーリーグ・Year book '91-'92』日本サッカーリーグ、1991年、77・126・127-141・144頁頁。
- ^ a b c 『クラブサッカーの始祖鳥 読売クラブ〜ヴェルディの40年』東京ヴェルディフットボールクラブ、2010年、238-239頁。
- ^ “クラブ沿革 1993”. 清水エスパルス - 公式WEBサイト. 2020年12月5日閲覧。
- ^ “試合日程・結果:1997 UMBRO チャレンジ・Jマッチ ヴァンフォーレ甲府 vs ジュビロ磐田”. ジュビロ磐田. 2020年12月5日閲覧。
- ^ “トラベッソフットボールクラブ”. ジュニアサッカーを応援しよう!. 株式会社カンゼン (2007年4月9日). 2020年12月5日閲覧。
- ^ 「日本サッカーリーグ全史」編集委員会編『日本サッカーリーグ全史』日本サッカーリーグ、1993年、85・201-215頁頁。