高知坐神社
高知坐神社 | |
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社殿 | |
所在地 | 高知県宿毛市平田町戸内 |
位置 | 北緯32度57分4.47秒 東経132度48分1.19秒 / 北緯32.9512417度 東経132.8003306度座標: 北緯32度57分4.47秒 東経132度48分1.19秒 / 北緯32.9512417度 東経132.8003306度 |
主祭神 | 都味歯八重事代主神 |
社格等 | 式内社(小) 旧郷社 |
創建 | 不詳 |
本殿の様式 | 三間社流造 |
例祭 | 旧暦9月22日[1] |
地図 |
高知坐神社(たかちにますじんじゃ/たかちにいますじんじゃ、高知座神社)は、高知県宿毛市平田町戸内にある神社。式内社で、旧社格は郷社。
祭神
[編集]祭神は次の3柱[1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では「高知坐神社(高知に鎮座する神の社)」とのみ記され、祭神を明らかとしない。この「
なお『土佐国式社考』では、主祭神の神体を青黒玉石とし、相殿左神の神体を青石、相殿右神の神体を木像とする[1]。
歴史
[編集]創建は不詳[3]。付近では高知県で代表的古墳の1つである平田曽我山古墳(消滅)の築造が知られ、同古墳と当社を波多国造の墳墓・祭祀地と想定する説が挙げられている[3]。『先代旧事本紀』「国造本紀」では第10代崇神天皇の時に天韓襲命が波多国造に定められたと見え、創建をこの頃とする説もあるが詳らかではない[1]。境内地では祭祀遺跡の存在が知られ、平安時代の土師器・須恵器・甕が出土しているほか、縄文時代晩期の打製石斧も見つかっている[3][1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では土佐国幡多郡に「高知坐神社」と記載され、式内社に列している[1]。『和名抄』に見える地名のうちでは、現鎮座地は幡多郡枚田郷(ひらたごう、異本では牧田郷)に比定される[1]。
中世期には、元久2年(1205年)に社殿修理のことがあったほか、長福寺が別当寺であった[1]。『南路志』所引の応永6年(1399年)の鰐口銘では「高地之大明神」と見えるほか、同書所引の天文13年(1544年)の棟札には「高持者大明神」と見え、土佐一条氏4代当主の一条房基がその造営を実施している[3][1]。天正17年(1589年)の「山田郷内平田村地検帳」では「高持社」と見え、11代4歩の宮床と宝殿・舞殿・横殿の存在が記される[3][1]。
江戸時代には、宿毛土居の土佐藩家老の山内氏(安東氏)から崇敬を受け、明和5年(1768年)には7代山内氏篤によって現在の本殿が再建された[3]。
明治維新後、近代社格制度において郷社に列している[3][1]。
境内
[編集]本殿は、江戸時代の明和5年(1768年)の宿毛土居家老7代山内氏篤および嫡男の氏益の再建による。三間社流造で、屋根は杮葺。内部は内陣・外陣に分かれる。象鼻・蟇股・手挾など一部には江戸時代初期の再建時の彫刻を残す。高知県指定保護有形文化財に指定され、現在は覆屋内に鎮座する[3][4][5][6]。
社前のイチイガシは、高知坐神社の社叢において最大の木で、樹高は29.0メートルを測り、推定樹齢は400年とされる。宿毛市指定天然記念物に指定されている[6][7]。
- イチイガシ(宿毛市指定天然記念物)
摂末社
[編集]- 左宮(本殿向かって左側に鎮座)
- 聖神社
- 皇太子宮
- 曽我神社
- 天満宮
- 右宮(本殿向かって右側に鎮座)
- 柴折神社
- 仁井田神社
- 大船神社
- 飛龍神社
- 鷣高神社
文化財
[編集]高知県指定文化財
[編集]宿毛市指定文化財
[編集]- 保護有形文化財
- 天然記念物
- 平田のいちいがし - 1963年(昭和38年)7月24日指定[6]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 境内説明板
- 地方自治体発行
- その他
- 明治神社誌料編纂所 編「高知坐神社」『府県郷社明治神社誌料』明治神社誌料編纂所、1912年。
- 『明治神社誌料 府県郷社 下』(国立国会図書館デジタルコレクション)477-478コマ参照。
- 「高知坐神社」『日本歴史地名大系 40 高知県の地名』平凡社、1983年。ISBN 4582490409。
- 八波浩 著「高知坐神社」、式内社研究会 編『式内社調査報告 第9巻』皇學館大学出版部、1987年。
- 明治神社誌料編纂所 編「高知坐神社」『府県郷社明治神社誌料』明治神社誌料編纂所、1912年。