鵜殿氏次

 
鵜殿 氏次
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 不明
死没 慶長5年8月1日1600年9月8日[1]
別名 長孝[1]、藤三郎[2]
主君 今川氏真松平家忠
氏族 鵜殿氏
父母 父:鵜殿長照
兄弟 氏長氏次[3]
長澄長昌[4]
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鵜殿 氏次(うどの うじつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将

生涯

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三河国上ノ郷城主として宝飯郡一帯(現在の蒲郡市域)を支配していた鵜殿長照の子として生まれる。鵜殿氏今川氏に従属していたが、永禄3年(1560年桶狭間の戦いの敗戦によって今川氏の三河支配は後退し、岡崎城の松平元康(後の徳川家康)が今川氏から離反すると多くの国人松平氏の傘下に加わった。上之郷鵜殿氏は西三河で数少ない今川方となったため松平氏と抗争したが、永禄5年(1562年)上之郷城は落城し父長照は戦死した。氏次は兄の氏長とともに松井忠次によって捕らえられ、駿府に抑留されていた元康の夫人とその嫡男竹千代、長女亀姫との人質交換によって今川氏方へと引き渡された[注釈 1]。その後は大原資良に従って吉田城を守ったが、同城が徳川氏によって奪われると駿河へ後退した。永禄11年(1568年)今川氏は駿河を失い、同年兄は徳川氏に臣従した[8][2]

天正18年(1590年)「落魄」していたという氏次は従兄弟にあたる松平家忠に仕える[注釈 2][9]慶長5年(1600年伏見城の戦い伏見城の守将となった家忠に従って西軍と戦い、家忠らとともに討死を遂げた[10][2]

関連作品

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テレビドラマ

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脚注

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注釈

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  1. ^ 氏長・氏次兄弟の母は今川義元の妹だったため、兄弟は今川家当主氏真の従兄弟にあたり、その血縁を重視されたとする説がある[5]。その後、黒田基樹は兄弟の母を今川義元の妹とする説を否定して[6]、今川氏の一門である御一家衆の女性であるとする説を唱えている[7]。ただし、御一家衆は今川の血筋を引く者として特別な扱いを受けており、氏次兄弟も今川氏一門を象徴する「氏」の偏諱を与えられたとする[7]
  2. ^ 家忠の母は氏次の叔母にあたる[2]

出典

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  1. ^ a b 伊藤 1979, pp. 21–22.
  2. ^ a b c d 『寛政重修諸家譜』, p. 163.
  3. ^ 『蒲郡市誌』, p. 199.
  4. ^ 伊藤 1981, p. 316.
  5. ^ 『新編岡崎市史』, p. 127.
  6. ^ 黒田基樹『北条氏康の妻 瑞渓院』 平凡社、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8 P40-63.
  7. ^ a b 黒田基樹『家康の正妻 築山殿 悲劇の生涯をたどる』平凡社新書、2022年、88-89.
  8. ^ 伊藤 1981, pp. 310–313.
  9. ^ 林 1979, p. 84.
  10. ^ 林 1979, pp. 21–22.
  11. ^ 石田星空”. クラージュキッズ. 2023年2月28日閲覧。

参考文献

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  • 伊藤天章 編『蒲郡史談』国書刊行会、1981年。 
  • 林銑吉 編『島原半島史』 下巻、国書刊行会、1979年。 
  • 蒲郡市誌編纂委員会; 蒲郡市教育委員会 編『蒲郡市誌』 本編、蒲郡市、1974年。 
  • 新編岡崎市史編集委員会 編『新編岡崎市史』 20巻、新編岡崎市史編さん委員会、1993年。 
  • 『新訂寛政重修諸家譜』 18巻、続群書類従完成会、1965年。ISBN 978-4-7971-0222-2