黒田長貞
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 元禄7年12月14日(1695年1月28日) |
死没 | 宝暦4年9月10日(1754年10月25日) |
改名 | 辰三郎、長治、長貞 |
別名 | 通称:市大夫、修理 |
戒名 | 耀誉祐歓興願院 |
墓所 | 福岡県朝倉市の古心寺 東京都渋谷区の祥雲寺 |
官位 | 従五位下、甲斐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家継→吉宗→家重 |
藩 | 筑前国秋月藩 |
氏族 | 野村氏→黒田氏 |
父母 | 父:野村祐春、母:黒田一貫の娘・鶴子 養父:黒田長軌 |
妻 | 上杉綱憲の娘・豊姫(瑞耀院) |
子 | 女子、長邦、春姫(秋月種美室)、長通、酒井忠聴(酒井忠陸養子)、女子(甘露寺規長室)、信助、女子(唐橋在家室)、満徳院(堤栄長室) |
黒田 長貞(くろだ ながさだ)は、江戸時代中期の大名。筑前国秋月藩4代藩主。室は上杉綱憲の娘[1]。
生涯
[編集]元禄10年(1697年)、福岡藩家臣・野村祐春の子として筑前国福岡にて誕生した[1]。母は黒田一貫の娘[1]。
正徳5年(1715年)11月、黒田長軌の病が重くなり養子となり、同年12月25日、遺領を継いだ[1]。
享保元年(1716年)1月15日、8代将軍・徳川吉宗に御目見する[1]。同年7月22日、従五位下甲斐守に叙任[1]。財政窮乏化のため、定免制や蔵米知行制度導入による藩政改革を行なっている。
宝暦4年(1754年)9月10日、秋月にて死去した[1]。58歳[1]。法号は耀誉祐歓興願院[1]。同地の古心寺に葬られた[1]。
家督は長男・長邦が継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 豊姫、瑞耀院 - 上杉綱憲の娘
子女
- 黒田長邦(長男) 生母は瑞耀院
- 黒田長通(次男) 生母は瑞耀院
- 酒井忠聴[2](三男) 生母は瑞耀院
- (四男) 生母は瑞耀院
- (長女) 生母は瑞耀院
- 春姫(次女) - 秋月種美正室、生母は瑞耀院
- 娘(三女) - 甘露寺規長正室
- 娘(四女) - 唐橋在家正室
- 満徳院 - 堤栄長正室
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「巻第四百二十五 佐々木庶流」『寛政重修諸家譜』 第三輯、國民圖書、1923年2月18日。NDLJP:1082714/117。