オグズ
オグズ(Oghuz)は、かつて中央アジアの北部に存在したテュルク系遊牧民族。
ブルガロイなど草原の道(ステップロード)に沿って移動したテュルクと区別して、絹の道(シルクロード)を移動したテュルクの人びとを称することがある[1]。10世紀以降になると南下してトゥルクマーン[注釈 1]という名で呼ばれるようになり、その一部はセルジューク朝などのイスラーム王朝を建てた。
名称
[編集]オグズを表す用語は史料によって異なり、なかには微妙な差異もある。
グッズ(Ghuzz)、グオッズ(Guozz)、クズ(Kuz)、オグズ(Oguz、Oğuz)、オクズ(Okuz)、オウフォイ(Oufoi)、オウズ(Ouz)、オウゾイ(Ouzoi)、トルク(Torks)、トゥルクマーン(Turkmen)、ウグズ(Uguz、Uğuz)、ウズ(Uz)
このうちのトゥルクマーンはムスリムとなってセルジューク勢力に従う者たちに対して使われ、グッズは非ムスリム・非セルジューク家を表す傾向にある[4]。「オグズ」は、神話・伝説上の英雄オグズ・カガンに由来する[1][5]。モンゴル高原からシルクロードに沿って中央アジアやイラン、ザカフカス(南コーカサス)、アナトリア高原、バルカン半島などへ移動していったテュルクの人びとを指している[1][注釈 2]。
24氏族
[編集]マフムード・カーシュガリーの『テュルク諸語集成』において、オグズは22の氏族に分かれていたとされるが、ラシードゥッディーンの『集史』では24氏族とされている。以下はその24氏族。
- ボズ・オクラル(Boz Oklar:灰色の矢)
- クン・カン(Kun qan、ギュン・ハン、Gün Han:太陽汗)
- カイ(qayi、kayi:壮健者)
- バヤト(Bayat)
- アルカ・オラ(アル・カラウリ、al qrauli、アルカエヴリ、Alkaevli)
- カラ・エヴルゥ(カラ・ヤウリ、qra yauli、カラエヴリ、Karaevli:黒帳)
- アイ・カン(ai qan、アイ・ハン、Ay Han:月汗)
- ヤゼル(yazr、ヤズルル、Yazlr)
- ドュグュル(ドゥケル、dukr、ドゲル、Döger)
- ドドルガ(ドルダルガ、durdarga、ドドゥルガ、Dodurga:立法会議)
- ヤパルル(Yaparlu)
- ユルドゥズ・カン(yulduz qan、イルディズ・ハン、Yildiz Han:星汗)
- オスル(ausr、アヴシャル、Avsar)
- カズィク(qiziq、クズィク、クルズルク、Klzlk:剛毅)
- ビグディリ(bik dili、ベグ・デリ、ベグディリ、Begdili:尊敬)
- カルキン(qarqin、カルクルン、Karkln)
- ウチュ・オクラル(Üç Oklar、オチ・オク、auc auq:三本の矢)
- コク・カン(kuk qan、ギョク・ハン、Gök Han:空汗)
- バインドゥル(baindur、バヤンドル、バユンドゥル、Bayundur)
- ビチナ(ビチネ、bicneh、ペチェネク、Peçenek)
- チャウンドル(ジャウルドル、jauldur、チャヴルドゥル、Çavuldur)
- チニ(チブニ、cibni、チェプニ、Çepni)
- タク・カン(taq qan、ダグ・ハン、Dağ Han:山汗)
- サロル(サルル、Salur)
- イムル(yimur、エイミュル、Eymür)
- アラ・ユントゥ(alaiunt、アラ・ユントゥル,Ala Yuntlu)
- オラギル(ウルキズ、aurkiz、ユレギル、Yüregir)
- ディングィズ・カン(dinkkiz、デンギズ・カン、デニズ・ハン、Deniz Han:海汗)
- エスキンドル(ベクディル、bikdir、イグディル、Igdir)
- ブクドル(ブクドズ、bukduz、ブグデュズ、Bügdüz)
- セヴァ(イバ、yiweh、イルヴァ、Ylva)
- カニク(qiniq、クヌク、クルンルク、Klnlk:尊敬される)
『集史』によると、これら24氏族はもともと彼らの伝説的始祖であるオグズ・カガン[5]から生まれた6人の息子(ギュン・ハン、アイ・ハン、イルディズ・ハン、ギョク・ハン、ダグ・ハン、デニズ・ハン)から、さらに4人ずつ生まれた息子たちが始祖となって形成されたという。また、『テュルク諸語集成』における22氏族はこの24氏族の中にすべて含まれるが、その順番はまったく異なっている。
その他、オグズ族の分派としては次のものがある。
カーシュガリーの記録
[編集]カーシュガリーの『テュルク諸語集成』によると、テュルク民族は20の大きな集団に分かれており、オグズと呼ばれる集団は、ペチェネグ,キプチャクに次いで西方から3番目の集団であったという。カーシュガリーはこのオグズ部族についてことのほか詳しい記録を残しており、オグズについてのみ内部の小集団(22氏族)の名称が挙げられている。さらに現存するカーシュガリーの写本には、遊牧民であったオグズ部族が、互いの家畜を見分けるために用いた印で、モンゴル時代にはタムガと呼ばれた標章が書き込まれている[7]。
トゥルクマーン
[編集]「トゥルクマーン」の由来を『集史』「テュルク・モンゴル諸部族史」では以下のように記している。
オグズ(Ūghūz)の諸子から24の枝分かれが現れ、目次に詳細に記されたように、各々が固有の名称・通称を得た。世界に存在するすべてのトゥルクマーンたち(Turkmānān)は、これらの諸部族、すなわちオグズの24子の子孫である。トゥルクマーン(Turkmān)という語は昔はなかった。トゥルク(テュルク)人の顔(東洋系の顔)をしているすべての遊牧諸部族は、「純粋なトゥルク(Turk)」と呼ばれ、各部族には固有の通称が定められていた。オグズの諸部族が、自己の領域を出て、マー・ワラー・アンナフル地方と、イランの地に入り、この地域において彼等の人口増加があった時に、水と大気の影響によって、彼等の顔かたちは次第にタジクの顔かたちに似るようになった。しかし、純粋なタジクではなかったので、タジク諸部族は彼等を「トゥルクマーン」すなわち「トゥルク(テュルク)に似ている」と呼んだ。そのために、この名がオグズの諸分族・諸部族全体に適用され、その名で知られるようになったのである。 — 『集史』テュルク・モンゴル諸部族史
オグズ系のイスラーム王朝
[編集]イスラームの歴史上、オグズあるいはトゥルクマーンと呼ばれたテュルク系民族の一大集団は、11世紀以降の西アジアで政治的に重要な役割を果たした。カーシュガリーはオグズ部族の中に22の小集団を数えているが、そのうちの上位6氏族からは西アジア史に残るイスラーム王朝が生まれている。
セルジューク朝の成立
[編集]シル川以北にいたオグズ連合部族の一氏族であるクヌク氏から、セルジューク(セルチュク)という者が台頭し、彼に率いられた集団は10世紀の中ごろになってオグズから分かれて左岸に移り、ジャンドの町を根拠地とした。ここでイスラームを受容した彼らはサーマーン朝の庇護のもと、ザラフシャン川の流域に移動した。11世紀初頭(1020年代)、セルジュークの息子であるアルスラーン・イスラーイールはカラハン朝のブハーラー,サマルカンドの支配者であるアリー・ティギーンのもとにあったが、カラハン朝の内紛に乗じてカラ・クムの草原,アム川を越えてガズナ朝の領域であったホラーサーンの北部に侵入した。ガズナ朝のマフムードはトゥルクマーン(イスラームに改宗したオグズのこと)の影響力を恐れてアルスラーンを逮捕・幽閉した。彼の統制から離れたトゥルクマーンたちは、ニサー,サラフスなどのホラーサーン北方都市周辺地域で多数の家畜の放牧を始めたため、牧地が荒廃し、租税収入も減少した。そのためマフムードは彼らの追放を決し、自ら軍を率いて攻撃に赴いたが、トゥルクマーンの方もカスピ海の東北に拠点を設け、各地で略奪をおこなった。トゥルクマーンはさらに他の集団も合わせて数人の長(ベグ)の指揮のもと、ホラーサーンの諸都市の略奪を続けた。また、これらの集団を彼らが侵入したイラーク・アジャムにちなんでイラーキー・トゥルクマーンと呼んだり、族長の名をとってキジル,ギョクタシュなどと呼ぶものもあった。1038年、これら無統制となって暴徒化したトゥルクマーンを取り締まるため、ガズナ朝に見切りをつけたニーシャープールの支配者であるアーヤーン家は、セルジューク家のトゥグリル・ベクらを受け入れ、彼にトゥルクマーンの統制を任せた(このニーシャープール入城の1038年をもってセルジューク朝の成立とされる)。1040年、ダンダーンカーンの戦いでガズナ朝を壊滅させたトゥグリル・ベクは、次々と周辺都市を支配下におさめ、ホラーサーンでの覇権を確保するとともに、旧ガズナ朝の官僚などを採用して語学,法学などに通じた知識人を確保した。1055年、トゥグリル・ベクはバグダードに入城し、カリフから正式にスルターンの称号を授与された[10]。
言語
[編集]オグズの言語はテュルク語であったと思われ、彼らの言語的子孫であるトルコ人はテュルク諸語の南西語群(オグズ語群)に属すトルコ語を話す。
関連叙事詩
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d 坂本(2006)p.37
- ^ カーシュガリー『テュルク諸語集成』
- ^ 『トルクメン族』 - コトバンク
- ^ 永田 2002, p. 81.
- ^ a b 『オグズ・ハーン伝説』 - コトバンク
- ^ 佐口 1976,p308
- ^ 永田 2002, p. 101-102.
- ^ 宇野伸浩「『集史』の構成における「オグズ・カン説話」の意味」『東洋史研究』第61巻第1号、東洋史研究會、2002年6月、110-137頁、CRID 1390572174787847936、doi:10.14989/155416、hdl:2433/155416、ISSN 0386-9059。
- ^ 永田 2002, p. 102.
- ^ 永田 2002, p. 81-82.
- ^ 『デデ・コルクトの書』 - コトバンク
- ^ 『デデ・コルクトの書』 - コトバンク
- ^ 『キョルオウル伝説』 - コトバンク
- ^ 『キョルオウル物語』 - コトバンク
- ^ 『キョルオウル』 - コトバンク
参考文献
[編集]- コンスタンティン・ムラジャ・ドーソン(訳注:佐口透)『モンゴル帝国史1』(平凡社、1976年)
- 小松久男『世界各国史4 中央ユーラシア史』(山川出版社、2005年、ISBN 463441340X)
- 永田雄三「世界各国史9 西アジア史Ⅱ」、山川出版社、2002年、ISBN 4634413906。
- 長谷川太洋『オグズナーメ 中央アジア・古代トルコ民族の英雄の物語』(創英社、2006年、ISBN 4881422960)
- 坂本勉『新版 トルコ民族の世界史』慶應義塾大学出版会、2006年5月。ISBN 978-4-7664-2809-4。