ジェームズ・クック

ジェームズ・クック
James Cook
クックの公式肖像画 海軍博物館(ロンドン)所蔵
渾名 キャプテン・クック
Captain Cook
生誕 1728年10月27日
グレートブリテン王国の旗 グレートブリテン王国
ノースヨークシャー州マートン
死没 (1779-02-14) 1779年2月14日(50歳没)
ハワイ島
所属組織 英国海軍
軍歴 1755年 - 1779年
最終階級 勅任艦長英語版
戦闘 七年戦争
署名
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ジェームズ・クックJames Cook1728年10月27日 - 1779年2月14日)は、グレートブリテン王国海軍士官海洋探検家海図製作者。通称キャプテン・クック (Captain Cook)。 一介の水兵から、英国海軍の勅任艦長英語版 (Post-captain) に昇りつめた[1]

太平洋に3回の航海を行い、オーストラリア東海岸に到達、ハワイ諸島を発見し、自筆原稿による世界周航の航海日誌を残し(第2回航海)、ニューフンノ島ニュージーランドの海図を作製した。史上初めて壊血病による死者を出さずに世界周航を成し遂げた(第1回航海)。

10代を石炭運搬の商船船員として過ごした後、1755年に英国海軍に水兵として志願し、七年戦争に加わった。船員としての能力を認められたクックは1757年に士官待遇の航海長英語版に昇進し[2] 、英国軍艦Solebay号の航海長として、セントローレンス川の河口域を綿密に測量し海図を作成した。クックの作成した海図はウルフ将軍のケベック奇襲上陸作戦(1759年)の成功を導き、クックの存在は英国海軍本部と英国王立協会に注目されることとなった。クックは南方大陸探索の命を受けて、英国軍艦エンデバー号を指揮し、1766年に第1回航海に出帆した。

クックは多数の地域を正確に測量し、いくつかの島や海岸線をヨーロッパに初めて報告した。クックの幾多の偉大な功績をもたらしたのは、卓越した航海術、すぐれた調査と地図作成技術、真実を確かめるためには危険な地域も探検する勇気(南極圏への突入、グレートバリアリーフ周辺の探検など)、逆境での統率力、海軍省の指令の枠に納まらない探検範囲と気宇の壮大さ、これらのすべてであったと言えよう。また壊血病の予防に尽力し表彰されている。

第3回航海の途上、ハワイ島で先住民との争いによって1779年に落命した。

かつてニュージーランドで発行されていた10シリング1940年 - 1955年)、5ポンド・10ポンド紙幣(1956年 - 1967年)に肖像が使用されていた。

生い立ち

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クックは1728年10月27日ノースヨークシャー州マートンに生まれた。スコットランド人の父とマートン生まれの母の下、5人兄弟であった。父が農場の農事監督の職を得たため、家族と共にグレートアイトンの農場に移り、父の雇い主から学資を得て学校に通った。13歳になり父と共に働き始めた。16歳になったクックは、漁村ステイテスの雑貨店で徒弟奉公をするために家を出た。奉公中に店の窓の外を眺めているうち海に魅せられたという。

1年半の後、店のオーナーはクックに商才がないことを悟り、近隣の港町ウィットビーのウォーカー兄弟にクックを紹介する。ウォーカー家は当地の有力な船主で商家であった。1746年に、クックは英国沿岸の石炭運搬船団の見習い船員として雇われた。この間、操船に必要不可欠な代数学三角測量法航海術天文学の勉学に励んだ。

3年間の徒弟奉公を終えたクックはバルト海の貿易船のブリッグ「フレンドシップ号」で働き始めた。1755年にはフレンドシップ号の航海士に昇進していた。しかし、ひと月も経たぬうち、クックは、英国海軍に一介の水兵として志願入隊する。

1755年の英国海軍は、七年戦争に備えて軍備を強化していた。クックは、海軍に入った方が出世できるだろうと考えたらしい。クックは、水兵の身分から瞬く間に准士官たる航海士英語版に昇進し、海軍に入ってから僅か2年後の1757年には、航海長(士官待遇)の任用試験に合格した[2]。この時、クックは29歳であった。

家族

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34歳で、13歳年下のエリザベス・バッツ (1742-1835) と1762年に結婚し、6人の子供 ジェームズ (1763-1794)、ナサニエル (1764-1781)、エリザベス (1767-1771)、ジョゼフ (1768-1768)、ジョージ (1772-1772)、ヒュー (1776-1793) を儲けた。陸での住まいはロンドンのイーストエンド(貧民街)にあった。クックの子供たちは、いずれも子孫を残さずに夭折したため、クックの直系の子孫はいない。

英国海軍でのキャリア

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ジェームズ・クックの探検によるニューファンドランド島地図、1775年
現代の測量技術によって描かれたニューファンドランド島

七年戦争(1756年~1763年)において、クックは航海長として、英国軍艦Solebay号のロバート・クレイグ艦長の下で1759年ケベック包囲戦に加わった。既に測量及び海図作成の技量を認められていたクックは、セントローレンス川河口の測量と海図作成を任され、包囲戦の趨勢を決したウルフ将軍の奇襲上陸作戦の成功に大いに寄与した。

1760年代のクックは、ニューファンドランド島の入り組んだ海岸の測量に取り組んだ。夏季でも常に海霧に覆われ、強風が吹き、冬は極寒となるニューファンドランド島海域において、帆船で測量を行うのは至難かつ危険な仕事であった。クックは、1763年1764年に北西部、1765年1766年にブリン半島とレイ岬の間の南岸、1767年に西岸を測量した。クックの5年にわたる測量によって、ニューファンドランド島海域の正確な海図が初めて作成された。

ニューファンドランド島海域測量の奮闘を終えた時、クックは記した。

「これまでの誰よりも遠くへ、それどころか、人間が行ける果てまで私は行きたい」

七年戦争でのセントローレンス川河口海域測量、1760年代のニューファンドランド島海域測量での功績により、クックは英国海軍本部と英国王立協会の注目を受けることとなった。

第1回航海(1768年 - 1771年)

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赤は第1回航海、緑は第2回航海、青は第3回航海をあらわす。青の点線は、クック死後の航海ルートである

タヒチへ

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1766年、王立協会はクックを金星の日面通過の観測を目的に南太平洋へ派遣した[3]。英国海軍航海長(士官待遇だが、公式の指揮権を有さない)の階級にあった38歳のクックは、公式の指揮権を有する正規の海軍士官たる海尉に任官し[1]、英国軍艦エンデバー号の指揮官となった。もともと、エンデバー号はウィトビーで建造された石炭運搬船で、大きな積載量、強度、浅い喫水、どこを取っても、暗礁の多い海洋や多島海を長期間航海するにはうってつけの性能を備えていた。クックは1768年8月25日に英国南部のプリマスを出帆し[4]マデイラ諸島リオデジャネイロに寄港したのち南米大陸南端のホーン岬を東から西に周航し[5]、太平洋を横断して西へ進み、天体観測の目的地であるタヒチ1769年4月13日に到着した。日面通過は6月3日で、クックは小さな居館と観測所の建造を行った。

観測を担当したのは、王室天文官(グリニッジ天文台長)ネヴィル・マスケリンの助手、天文学者チャールズ・グリーンであった。観測の目的は、金星の太陽からの距離をより正確に算出するための測定であった。もしこれが成功すれば、軌道の計算に基づいて、他の惑星の太陽からの距離も算出できるはずであった。金星の日面通過の観測当日、クックはこう記している。

「6月3日土曜日。本日は期待通り観測に好適な日和となり、雲一つなく、空気は完璧に澄んでおり、金星の日面通過の全経路の観測にはあらゆる好条件が備わっていた。金星を取り巻く大気あるいは薄暗い影があまりによく見えたので、金星と太陽の接触、とくに第2接触の時刻の観測がきわめて困難になってしまった。ソランダー博士とグリーンと私は同時に観測したが、それぞれが観測した接触時刻は思っていたよりもかなりずれていた」

しかし、グリーン、クック、ソランダーがそれぞれ別に行った観測は誤差の期待範囲を越えていた。観測器具の解像度が未だ足りなかったのである。観測結果は別の場所で行なわれた結果と後に比較検討されたが、やはり期待したような正確な観測結果ではなかった。

タヒチからニュージーランドへ

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天体観測が終了するとすぐに、クックは航海の後半についての秘密指令を開封した。それは、海軍本部の追加命令に従って、伝説の南方大陸(テラ・アウストラリス、Terra Australis)を求めて南太平洋を探索せよ、という指令であった。金星観測(しかもエンデバー号のような目立たない小さな艦で)を隠れ蓑にすれば、英国にとって今航海は、ライバルのヨーロッパ諸国を出し抜いて南方大陸を発見し伝説の富を手に入れる絶好の機会となろう、と王立協会は考えたのである。この説の特に熱心な信奉者が王立協会会員のアレクサンダー・ダリンプルであった。

ニュージーランドのクック海峡

南太平洋の地理にきわめて詳しいトウパイアというタヒチ人の助力を得て、1769年10月6日クックはヨーロッパ人として史上2番目に(1642年アベル・タスマン以来)ニュージーランドに到達した。クックは、いくつかの小さな誤り(バンクス半島を島としたり、スチュアート島を南島の一部と考えるなど)はあるものの、ニュージーランドの海岸線のほぼ完全な地図を作製した。また、ニュージーランドの北島と南島を分ける海峡(クック海峡)を発見した[6](アベル・タスマンは海峡ではなく湾と判断していた)。

ニュージーランドからオーストラリアへ

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クックは航路を西に取り、伝説の南方大陸の一部をなしているのか否かを確かめる目的で、ヴァン・ディーメンズ・ランド(今日のタスマニア)を目指した。しかし、エンデバー号は暴風で北寄りに流され、1770年4月20日金曜日、後にクックがヒックス岬と命名した陸地を目撃するまでそのまま航行した。計算によればタスマニア島はそこより南に位置しているはずだったが、南西に伸びる海岸線が目撃されたことから、この陸地はタスマニア島に繋がっているのではないか、とクックは疑った。この岬はオーストラリア大陸の南東海岸に位置し、結果として、クックの探検隊はオーストラリア大陸の東海岸に到達した史上初のヨーロッパ人となった[7]

クックが発見した陸標は、ビクトリア州南東岸のオーボストとマラクータのほぼ中間の岬であるとされる。1843年に行われた調査ではクックの命名が無視されたか見過ごされたため、岬には別の名前が命名されていたが、オーストラリア発見200年記念祭の折に、公式にヒックス岬と名称回復された。

エンデバー号は海岸線に沿って北上を続け、クックは測量と陸標の命名を次々に行った。1週間余り過ぎた頃、一行は大きな浅い入り江に入り、砂丘に覆われた低い岬の沖に停泊した。そここそ、4月29日に、クック一行がオーストラリア大陸に初めて上陸した、現在ではカーネル(en:Kurnell, New South Wales)として知られている場所である。多くのエイが見られたために、この入り江はクックによってアカエイ湾と命名されたが、後に植物学者湾と改称され、最終的には、博物学者のジョセフ・バンクスヘルマン・スペーリング英語版ダニエル・ソランダーによって採集された例を見ない貴重な植物標本を記念してボタニー湾(植物学湾)となった。博物学者たちは、後にオーストラリアの動物相植物相に関する最初の科学論文を上梓した。

一行の最初の上陸地は、入植地および英国の植民地の前哨基地にうってつけの候補地として(特にジョセフ・バンクスによって)、後に喧伝された。しかし、ほぼ18年後、1788年のはじめに、前哨基地と囚人の入植地を設置するためにアーサー・フィリップ艦長率いる第一艦隊がオーストラリアに到着した際、ボタニー湾は聞いていたほど有望ではないとフィリップは判断し、代わりに北へ数キロメートルの上陸地へ移動した。そこはクックがかつてポート・ジャクソン湾と名付けたが、それ以上の探検はしなかった場所であった。フィリップは湾内の入江をシドニー・コーブと名付け、入植地が設置された。しかし、その後もしばらくは入植地はボタニー湾入植地と呼び習わされた。

最初の上陸の際に、クック一行はオーストラリア先住民のアボリジニと接触している。

海岸線を測量しながらクックは北へ船を進めた。1770年6月11日グレートバリアリーフの浅瀬にエンデバー号が乗り上げ大破したため、砂浜で修理が行われ航海は7週間の遅れを生じた(そこはエンデバー川の河口、現在のクックタウンの船着き場の近くである)。その間、バンクス、スペーリング、ソランダーはオーストラリアの植物の最初の大規模な採集を行った。乗組員と当地のアボリジニの人々との遭遇はおおむね平和的であった。当地のアボリジニが話したグーグ・イミディル語でオオカンガルーを指す "gangurru" から、「カンガルー」が英語の仲間入りをした。

オーストラリアから帰国

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エンデバー号の修繕を終えると直ちに航海は続けられ、クック一行は、ヨーク岬半島の北端を通過し、オーストラリアニューギニアの間のトレス海峡を抜けた。ヨーク岬半島を巡って、オーストラリアとニューギニアが陸続きでないことを確認すると、クックは1770年8月22日にポゼッション島に上陸し、オーストラリア東岸の英国領有を宣言した。

この航海でクックはただ1人の船員も壊血病で失わなかったが、これは18世紀においては奇跡的な成果であった。1747年に導入された英国海軍の規則に則って、クックは柑橘類ザワークラウトなどを食べるように部下に促した。クックが部下にこれらの食物を摂らせた方法は、指導者としての彼の優れた資質をよく物語っている。当時の船員は新しい習慣には頑強に抵抗したので、最初は誰もザワークラウトを食べなかった。クックは一計を案じ、ザワークラウトは自分と士官だけに供させ、残りを望む者だけに分けてみせた。上官らがザワークラウトを有り難く頂戴するのを見せると、1週間も経たぬ間に、自分らにも食べさせろという声が断りきれぬほど船内に高まった、とクックは日誌に記している。

その後、一行は艦の修繕のために、オランダ東インド会社の本拠地があるバタヴィアへ向かった。バタヴィアではマラリア赤痢が猖獗をきわめており、1771年に一行が帰国するまでに、タヒチ人のトウパイア、バンクスの助手を務めたスペーリング、植物画家のシドニー・パーキンソンなど、多くの者が病を得て亡くなった。出発からバタヴィアまでの27ヶ月の航海ではわずか8名だった死者は、バタヴィア滞在中の10週間とバタヴィアからケープタウンまでの11週間に31名に達してしまった。

1771年6月12日午後、エンデバー号は南イングランドのダウンズに投錨し、クックはケントで下船した。帰国すると直ぐ航海日誌が出版されクックは科学界でも時の人となった。しかし、ロンドン社交界でクックの数倍の人気者となったのは、貴族階級の博物学者ジョセフ・バンクスだった。バンクスはクックの第2回航海にも同行する予定だったが、船の構造に不満を爆発させ直前で自ら任を降りた。

第2回航海(1772年 - 1775年)

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第1回航海から帰還後、功績を認められて「軍艦を指揮する海尉」から海尉艦長英語版に昇進した[1]クックは、王立協会から南方大陸(テラ・アウストラリス)探検隊の指揮を委任された。第1回航海のニュージーランド周航によって、ニュージーランドが南方の大陸とは繋がっていないこと、さらに、東海岸の測量によって、オーストラリアが大陸であろうことも、既に明らかにされていたのだが、テラ・アウストラリスはさらに南に存在するはずと王立協会はまだ信じていたのだった。こうして1772年7月12日、クックは第2回の探検航海に再び出帆した。

探検隊長のクックは、英国軍艦レゾリューション号を、トバイアス・ファーノーアドベンチャー号を指揮した。アフリカ大陸南端から東進した一行はきわめて高緯度の地域を周航し、1773年1月17日にヨーロッパ人として初めて南極圏に突入した。これがいかに偉業であったかは、次の南極圏突入が50年後だったことからも明らかである。南極圏の濃い霧によってはぐれた2隻はニュージーランドで落ち合った後、南太平洋を東進してさらに南下し南緯71度10分まで到達した。その後もクックは探検を続けたが、ファーノーは先に英国へ帰還することになった矢先にマオリ族との戦いで10人の部下を失っている。

クックはもう少しで南極大陸を発見するところであったが、南方大陸が人類が居住可能な緯度には存在しないことを確かめ、伝説の南方大陸の探索に終止符を打った[8]。補給のため北のタヒチへ進路を取り、オマイというタヒチ人の若者を伴って再び南へ向かったが、オマイは第1回航海のトウパイアほどは太平洋の地理に明るくなかった。帰り航海では、1774年トンガイースター島ニューカレドニアバヌアツに上陸した後、ふたたび南下して南緯50度から55度付近の航路を取った。これによってクックは南極大陸北方の海を周航したことになり、南方大陸がこの緯度までには存在しないことを確定させた。この航海によって、南方の未確定領域は大幅に狭められた[9]。クックはその後東進し、南アメリカ大陸南端を回り南ジョージア島南サンドウィッチ諸島を発見した。

一行の帰国報告によって、テラ・アウストラリスの伝説は沈静化した。一方で、クックは彼が探検した海域の南方には大陸があることを予想していた[10]が、それは人類が居住できるようなものではないことも予測していた。クロノメーターが活躍し正確な経度の決定が行われたことも、第2回航海の大きな業績であった[11]。ちなみに、クックは南サンドウィッチ諸島をサンドウィッチ・ランドと命名したが、第3航海でクック自身が発見・命名したサンドウィッチ諸島(ハワイ諸島)と区別するため後代の英国が南サンドウィッチ諸島とした。英国は1908年に公式に領有宣言、これに対しアルゼンチンも1938年に領有を宣言した。

多大な業績を挙げたクックは、帰国後に直ちに勅任艦長(ポスト・キャプテン)に昇進し、同時に海軍を休職して、グリニッジの海軍病院の院長に任命された。水兵から勅任艦長への栄進は、極めて稀な事例であった[1]壊血病予防に対する貢献に対して王立協会からコプリ・メダルを授与され、フェローにも選出された[12]。しかし、未だ48歳のクックは海から離れるのに耐えられず、航海記を書き上げた直後に、彼の最後の航海となる第3回航海に出帆した。

第3回航海(1776年 - 1780年)

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巷間では、ロンドン市民の好奇の的となっていたオマイをタヒチに戻すために航海が行なわれると噂されたが、第3回航海の公式の目的は、北極海を抜けて太平洋大西洋をつなぐ北西航路を探索することであった。クックは再びレゾリューション号の指揮を取り、チャールズ・クラークが僚船ディスカバリー号の指揮をとった。オマイをタヒチに返した後に、クックらは北へと進路を取り、1778年にはハワイ諸島を訪れた最初のヨーロッパ人となった。クックはカウアイ島に上陸し、時の海軍大臣でクックの探検航海の重要な擁護者でもあったサンドウィッチ伯の名前をとり「ハワイ諸島」を「サンドウィッチ諸島」と命名した。また、クック達はハワイ諸島にインフルエンザを持ち込み50万人いた島民は7万人にまで減少してしまった。

北アメリカの西海岸を探検するためにクックは東へ航海し、バンクーバー島のノコタ・サウンドの中のユーコートにあるファーストネーションズ村の近くに上陸したが、ファンデフカ海峡は見過ごしてしまった。この北洋航海でクックは、カリフォルニアからベーリング海峡に至るまでを探検、海図を作製し、アラスカの今ではクック湾として知られている場所を発見した。ただ1度の航海でクックは、アメリカの北西岸の大部分の海図を作製し、アラスカの端を突き止め、西方からベーリングロシア人が、南方からスペイン人が行っていた太平洋の北限探査の空隙を埋めてしまったのである[注釈 1]。しかし、クックらが何度試みても、秋から冬にかけてのベーリング海峡は帆船ではどうしても航行できず、そこから北へは進むことができなかった。

クックは長年の航海による精神的、肉体的ストレスの蓄積のためか、不調続きの航路探索のためか日毎に気難しくなり胃の不調にも悩まされていた。そのゆえなのか、クックはしばしば周囲と深刻なもめ事を起こすようになった。たとえば、アラスカで一行は海牛と見誤ってセイウチを仕留めた。「(残り少ない)塩漬け肉よりずっと良い」と、クックはセイウチの肉を船内で消費するよう命じたが、クックを除く多くの乗員の嗜好にセイウチの肉はまったく馴染まなかった。しかし、これを食べない者には船の通常の食事を禁じるなど、クックが自分の考えに固執したため船内には反乱寸前の緊張が生じた。このようなクックの精神的状態がその後の悲劇を引き起こす一因となったと、ビーグルホールら後の伝記作者たちは推測している。

クックの最期

レゾリューション号は1779年ハワイ島に戻りケアラケクア湾に投錨した。約1ヶ月の滞在の後、クックは北太平洋探検を再開したが、出航後間もなく前檣が破損し、補修のためケアラケクア湾に戻らなければならなくなった。しかし、ハワイの宗教上の複雑な事情ではこの突然の帰還は「季節外れ」で、先住民の側からすると思いがけないことだったため、クック一行と先住民の間に緊張が生じることになった。

1779年2月14日に、ケアラケクア湾でクックらのカッターボートを村人が盗むという事件が起きた。タヒチや他の島々でも盗難はよくあったことで、盗品の返還交渉は人質を取ればたいてい解決した。実際、クックは先住民の長を人質に取ろうとしたのだが、不安定な精神状態のためか、盗品の引き取りのために下船した際、浜辺に集まった群衆と小ぜり合いが起きてしまった。塵一つに至るまですべて返還せよ、という冷淡なクックの態度に先住民らは怒り、また、長の1人がクックらの捜索隊に殺されたという噂に動揺した結果、と投石でクックらを攻撃し始めた。クックらも村人に向けて発砲し、騒ぎの中、退却を余儀なくされた。小舟に乗り込もうと背中を向けたクックは頭を殴られ、波打ち際に転倒したところを刺し殺された。クックらの死体は先住民に持ち去られてしまった。

現地の宗教上の理由で奇妙な崇敬を受けていたクックの遺体は、先住民の長と年長者により保持され肉が骨から削ぎ取られ焼かれた。しかし、乗組員らの懇願によって、遺体の一部だけが最後に返還され、クックは海軍による正式な水葬を受けた。チャールズ・クラーク、そしてクラークの死後はジョン・ゴアが探険を引き継ぎ、更にベーリング海峡の通過が試みられたが、これも季節外れで失敗した。レゾリューション号とディスカバリー号が英国へ帰国したのは1780年8月のことであった。

クックの教え子たち

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その後、クックの下で働いた多くの部下達が、自身も目覚ましい業績を残した。代表的な人物を以下に挙げる。

記念

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イギリス国内ではマートンの生誕地と、ウィトビーの旧ウォーカー商館が、クックの業績を紹介する博物館となっている。オーストラリアではクックの両親が住んだ家屋がイギリスから海を越えてメルボルンに移築され、「クックス・コテージ」として公開されており、ヨーク半島のクックタウンには、ジェームズ・クック歴史博物館がある。

ニュージーランドのクック山クック海峡、アラスカのクック湾など、クックを名祖とする地名は数多い。小惑星番号3061のクックや月の豊かの海にあるクレーターにもその名が付けられた。またエンデバー号が座礁した海岸近くにはクックタウンがあり、クック死没地の近くにはキャプテン・クックという町があるなど、その名に因んで命名された自治体も世界各地にあり、ポリネシアの島嶼国家であるクック諸島は国名自体がクックに由来している。

科学的調査に関する乗り物として、スペースシャトルエンデバー号は、第1回航海におけるクックの乗艦にあやかった名である。イギリスで2007年より任務についた新型の海洋調査船は、アン王女によってRRSジェームズ・クックと命名された。

また、クックの第一回航海の船であるエンデバー号は、オーストラリア入植200年記念祭を記念するために1994年に復元された。2011年から2012年にかけて、この船はオーストラリアを周航した[14]

その他

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脚注

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注釈

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  1. ^ この航海はロシア政府を詩才し、1785年にビリングスとサルイチェフを隊長とする探検隊をシベリア東北部に派遣させることになる[13]

出典

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  1. ^ a b c d ネルソンの時代(1800年前後)の英国海軍には、水兵から士官(海尉と航海長を指すと思われる)に這い上がった男が120人存在し、そのうちの22人が勅任艦長となり、22人のうちの3人が提督、最終的には海軍大将まで上り詰めた(「風雲の出帆 - 海の覇者トマス・キッド 1」、ハヤカワ文庫、2002年、508頁、訳者の大森洋子によるあとがき)。1814年、ナポレオン戦争が終わろうとしていた年、最大規模にあった英国海軍は、戦列艦99隻、フリゲイト以下505隻を現役で運用し、乗組みの下士官兵は20万人を超えていたと思われる。指揮する士官は、将官が220名、勅任艦長が860名、海尉艦長が870名、海尉級の士官が4,200名を超えていた(「セーヌ湾の反乱 - 海の男ホーンブロワーシリーズ 9」ハヤカワ文庫、2008年15刷、410頁、訳者の高橋泰邦によるあとがき)。
  2. ^ a b 当時の英国海軍では、現在の海軍に通じる、『艦長(勅任艦長 Post Captain、海尉艦長 Commander、軍艦を指揮する海尉 Commanding Lieutenant)→ 海尉 Lieutenant → 士官候補生 Midshipmen → 下士官兵』の指揮系列と、『航海長 Master → 航海士 Master's Mate → 下士官兵』の指揮系列が併存していた。航海長は、複雑極まる帆船の操船、海図の管理の責任を持ち、艦長らの正規海軍士官を戦闘に専念させるための職であった。航海長は、正規の指揮権を有さないものの、艦内での待遇や俸給は海尉と同等であった。現代の海軍とは異なり、航海長の方が艦長より年長で、海上勤務年数が長いことが珍しくなかった。
  3. ^ 『道楽科学者列伝 ― 近代西欧科学の原風景』pp111 小山慶太 中公新書 1997年4月25日発行
  4. ^ 『道楽科学者列伝 ― 近代西欧科学の原風景』pp112-113 小山慶太 中公新書 1997年4月25日発行
  5. ^ ホーン岬の周辺海域は四季を問わずに大時化であり、偏西風の影響による強い西風と、西から東の(太平洋から大西洋への)速い潮流が常にあるため、風や潮流を無視して航海できる蒸気船が出現する前、帆船でホーン岬を東から西に周航して大西洋から太平洋に出るのは至難であった。西から東に周航して太平洋から大西洋に出るのは、やや容易であったが、困難を極めるのは同様であった。杉浦昭典 『海賊キャプテン・ドレーク』 中公新書、1987年、186-187頁。
  6. ^ 「オセアニアを知る事典」平凡社 p100-101 1990年8月21日初版第1刷
  7. ^ なお、オーストラリア大陸そのものに最初に到達したヨーロッパ人は、1606年にヨーク岬に上陸したオランダの航海者ウィレム・ヤンソン英語版である。
  8. ^ 「世界探検全史 下巻 道の発見者たち」p177 フェリペ・フェルナンデス-アルメスト著 関口篤訳 青土社 2009年10月15日第1刷発行
  9. ^ 「世界地理12 両極・海洋」p32 福井英一郎編 朝倉書店 昭和58年9月10日
  10. ^ 「海洋学 原著第4版」p18 ポール・R・ピネ著 東京大学海洋研究所監訳 東海大学出版会 2010年3月31日第1刷第1版発行
  11. ^ 「航海術 海に挑む人間の歴史」p146 中央公論社 茂在寅男 昭和42年6月26日発行
  12. ^ "Cook; James (1728 - 1779)". Record (英語). The Royal Society. 2011年12月11日閲覧
  13. ^ L.ベルグ『カムチャツカ発見とベーリング探検』龍吟社、1942年、414頁。 
  14. ^ https://www.afpbb.com/articles/-/2879434 「クック船長の「エンデバー号」のレプリカ船、豪シドニーに帰港」AFPBB 2012年05月22日 2015年3月7日閲覧

参考文献

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  • Aughton, Peter. 2002. Endeavour: The Story of Captain Cook's First Great Epic Voyage. Cassell & Co., London.
  • John Cawte Beaglehole, biographer of Cook and editor of his Journals.
    • J・C・ビーグルホール『キャプテン ジェイムス・クックの生涯』 佐藤皓三訳、成山堂書店、1998年
  • Edwards, Philip, ed. 2003. James Cook: The Journals. Prepared from the original manuscripts by J. C. Beaglehole 1955-67. Penguin Books, London.
  • Williams, Glyndwr, ed. 1997. Captain Cook's Voyages: 1768-1779. The Folio Society, London.
  • Sydney Daily Telegraph. 1970. Captain Cook: His Artists - His Voyages. The Sydney Daily Telegraph Portfolio of Original Works by Artists who sailed with Captain Cook. Australian Consolidated Press, Sydney.
  • Thomas, Nicholas. 2003. The Extraordinary Voyages of Captain James Cook. Walker & Co., New York. ISBN 0-8027-1412-9

訳書・評伝(近年刊)

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  • 『クック 太平洋探検』 増田義郎訳、岩波書店17・18世紀大旅行記叢書 第Ⅰ期」(上・下)、1992-94年/岩波文庫 全6巻、2005年
  • 『クック 南半球周航記』 原田範行訳、岩波書店「シリーズ世界周航記」(上・下)、2006年
  • 『キャプテン・クック 科学的太平洋探検』ジョン・バロウ編、植松みどり荒正人訳、原書房「大航海者の世界6」、1992年
  • フランク・マクリン 『キャプテン・クック 世紀の大航海者』 日暮雅通訳、東洋書林、2013年
  • ガナナート・オベーセーカラ 『キャプテン・クックの列聖 太平洋におけるヨーロッパ神話の生成』 中村忠男訳、みすず書房、2015年
  • トニー・ホルヴィッツ 『青い地図 キャプテン・クックを追いかけて』 山本光伸訳、バジリコ(上・下)、2003年

関連項目

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外部リンク

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