ニュー・フォーク


本場のアメリカでアメリカン・フォーク・ミュージック・リバイバル (American Folk Music Revival) しばしば略してフォーク・リバイバル(英: folk revival)と呼ばれ、日本でニュー・フォークなどと呼ばれることもあるのは、主に1930年代や1940年代ころから始まり1960年代ころに頂点に達したアメリカのフォーク・ミュージック(en:American folk music)の再興のムーブメント(運動、潮流)であり、またその楽曲のスタイルや音楽ジャンルのことである。
ニュー・フォークとは日本で1969年頃から1970年代の前半にかけて短期間、トワ・エ・モワ[1][2]、よしだたくろう(以下、吉田拓郎)[3][4]、はしだのりひことクライマックス[1]、ジローズ[1]、赤い鳥[1]、浅川マキ[1]、にわまさき[1]、あがた森魚[4]、友部正人[4]、泉谷しげる[4]ら、それまでのプロテスト色の強いフォークソングに対して、プロテスト色の薄いフォークソングを総称して、当時のレコード会社や音楽評論家、活字メディアが付けた名称[3][4][5]。英語圏では使用されない和製英語で当然、アメリカの古いフォークソングの再興運動であるフォーク・リバイバルとは無関係である。
歴史
[編集]主にアメリカやイギリスで起きた、民謡・民俗音楽のフォーク・ミュージックの再興運動がこう呼ばれ、アメリカではアメリカン・フォーク・ミュージック・リバイバル[6]、イギリス国内で起きた再興運動はブリテイッシュ・フォーク・リバイバルと呼ばれた。
初期のフォーク音楽にかかわったシンガーには、ウディ・ガスリー en:Woody Guthrie、ピート・シーガー 、レッドベリー en:Lead Belly、リチャード・ダイアー・ベネット en:Richard Dyer-Bennet, オスカー・ブランド en:Oscar Brand、ジーン・リッチー en:Jean Ritchie、ジョン・ジェイコブ・ナイルズ en:John Jacob Niles、スーザン・リード en:Susan Reed, ジョッシュ・ホワイト en:Josh White、シスコ・ヒューストン en:Cisco Houstonらがいた。[7]1950年代なかばのアーティストとしては、オデッタ en:Odettaの名を挙げることができる。

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioはアメリカ西海岸出身で、過度に政治的なメッセージやプロテスト・ソングは避け、いわゆる行儀の良い、大学生的な歌を歌っていた。Cracked Potという名の、大学内のクラブで歌っていたところフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werberに見出され、彼がマネージャーとなり、キャピトルレコードと契約を結ぶにいたった。最初のヒット曲は『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリーの追悼コンサートでも歌われ、レコードが300万枚以上売れるヒットとなり、グラミー賞のBest Country & Western Recording賞を受賞した。1958年から1961年にかけてのキングストン・トリオの大きな商業的成功によりキャピトルレコードに2,500万ドル(2021年の貨幣価値に換算して約2億2000万ドル)以上の収益がもたらされたことで、キャピトルレコードはキングストン・トリオに似たアーティストグループ、例えばブラザース・フォア en:the Brothers Four、ピーター・ポール&マリー en:Peter, Paul and Mary、ザ・チャド・ミッチェル・トリオen:The Chad Mitchell Trio、ザ・ニュー・クリスティ・ミンストレルズ en:The New Christy Minstrelsなどの楽曲のリリースにも力を入れてゆくことになった。
- フォーク・リバイバルの絶頂期

ザ・キングストン・トリオ en:The Kingston Trioはアメリカ西海岸出身で、過度に政治的なメッセージやプロテスト・ソングは避け、いわゆる行儀の良い、大学生的な歌を歌っていた。Cracked Potという名の、大学内のクラブで歌っていたところフランク・ウェルバー Frank Nicholas Werberに見出され、彼がマネージャーとなり、キャピトルレコードと契約を結ぶにいたった。最初のヒット曲は『トム・ドゥーリー』で、これはレッドベリーの追悼コンサートでも歌われ、レコードが300万枚以上売れるヒットとなり、グラミー賞のBest Country & Western Recording賞を受賞した。1958年から1961年にかけてのキングストン・トリオの大きな商業的成功によりキャピトルレコードに2,500万ドル(2021年の貨幣価値に換算して約2億2000万ドル)以上の収益がもたらされたことで、キャピトルレコードはキングストン・トリオに似たアーティストグループ、例えばブラザース・フォア en:the Brothers Four、ピーター・ポール&マリー en:Peter, Paul and Mary、ザ・ライムライターズ en:The Limeliters、ザ・チャド・ミッチェル・トリオen:The Chad Mitchell Trio、ザ・ニュー・クリスティ・ミンストレルズ en:The New Christy Minstrelsなどの楽曲のリリースにも力を入れてゆくことになった。
文献に見られるニュー・フォーク
[編集]前述のようにニュー・フォークとは、活字メディア等が、日本の一部のフォークソングだけに付けたネーミングで、以下のものがある。トワ・エ・モワが1969年5月10日にリリースしたシングル「或る日突然」のアルバムジャケットに「これがニュー・フォークだ!」と書かれている[2]。『平凡パンチ』1970年3月30日号の吉田拓郎を紹介した記事の見出しは「120曲のニュー・フォークを創った"日本のボブ・ディラン」で[3]、記事内に「最近クローズアップされはじめたニュー・フォークの歌」という記述が見られるため[3]、ニュー・フォークという言葉自体は「或る日突然」辺りが初出と見られる。これが最初だと考案者はキャッチコピーが得意な東芝音工ということになる[2]。東芝は後に『ニュー・フォーク大百科事典』という3枚組アルバムを発売している。『朝日ソノラマ』は1970年7月号から9月号まで3カ月に渡りわたって「真夏の青春・ニュー・フォークの旗手よしだたくろう」という書籍を発売している。『週刊平凡』は1971年7月1日号のグラビアで、「今年の夏はニューフォークでなくっちゃ 歌謡曲なんか吹っ飛ばせ、と意気込むニュー・フォーク集団」という見出しで、トワ・エ・モワ、はしだのりひことクライマックス、ジローズ、赤い鳥、浅川マキ、にわまさきの6組を紹介し[1]、本文には「この夏、いかした水着やジーンズのファッションとともに主役になるであろうニューフォーク。キャンパスや野外音楽堂のフォーク集会には、数千のヤングが駆けつける。テレビの歌番組の上位もニューフォークが独占。単なるブームではなく、フィーリング・エイジの間に定着した。『戦争を知らない世代の僕達が、自己主張できる歌がニューフォークなんです。既成の歌謡曲なんて、クソ喰らえです』と、この中でボス格のはしだがいった」などと書かれている[1]。
『サンデー毎日』は、1972年6月25日号で「ニュー★フォークが燃えている 若者の心をバッチリつかんだ四人の旗手」という見出しで、吉田拓郎、泉谷しげる、あがた森魚、友部正人の4人を取り上げ、冒頭の説明に「フォークソングの新しい波が打ち寄せている。70年安保以前のフォーク・ゲリラが"広場"を追われ、"路地"にもぐりこんで以来、しばらくの間、ギターをかかえた若者たちはあまり目につかなかった。それがまた燃え始めたらしい。歌い手たちが燃えているというより、歌が必要になっているのかもしれない。新しい波はニュー・フォークと呼ばれる、ここにあげた四人はその一翼をになう歌い手たちである」と書き、ニュー・フォークを説明している[4]。1972年には多くの雑誌で使用が見られ、1972年7月には小倉エージ著で主婦と生活社から『ニュー・フォークの世界(ロック・ミュージック・ライブラリー)』が発売されている。『新譜ジャーナル』1972年9月号の日本音楽学院の通信講座の広告に「君もニュー・フォークを弾こう!! 一週間で弾き語り! 一ヵ月でPPM!! 六ヶ月で貴方はニュー・フォークのリーダー!!」という見出しが載り[5]、新たに「ニュー・フォーク・ギター科」と「ニュー・ロック・ギター科」を新設したと書かれている[5]。『週刊明星』1972年9月3日号では「ニュー・フォークの人気歌手」という特集が組まれ、古井戸、あがた森魚、吉田拓郎、泉谷しげるらが取り上げられている。『月刊明星』1972年10月号では、あがた森魚、武川雅寛、鈴木慶一、及川恒平、南こうせつ参加による「ニュー・フォーク座談会」が組まれている。『近代映画』は1972年10月号で「フォーク歌手大百科(ニューフォークの主要メンバーを網羅)」という特集を組んでいる。『深夜放送ファン』1974年4月号にフォークソングを流すラジオ番組の紹介があり[8]、このうち、FM東京が毎週月曜から金曜日まで21:40-21-55枠に放送していた『エクセル・ユア・ポップス』(『マクセル・ユア・ポップス?』)の説明に「イージー・リスニングが多い中で、この番組だけは、フォークを中心に構成されている。月曜日から金曜日まで、毎日違ったジャンルのフォークを集めて、バラエティーに富んだフォーク番組になっている。まず月曜日のフォークだけど、ここでは、1人のアーティストを特集した、フォーク・アルバムになっている…火曜日はフォークのなつメロをやる。フォークになつメロがあるの、なんて思う人がいるかもしれないが、フォークブームも、そろそろ10年になろうとしているのだ。当然ながら、かつてブームを支えた唄が、なつかしい部類に収められてもいい頃だ。岡林信康、フォーク・クルセダーズなどの唄が、ちょくちょく顔をだす。そして水曜日には、ガラッと変わって、ニュー・フォークを紹介。ニュー・サディスティック・ピンクなどの新人や、新譜を聞かせてくれる。以上は、すべて日本のフォークだけど、木曜日だけは外国のフォークを特集する…」などと書かれている[8]。つまり1974年時点での「ニュー・フォーク」と呼ばれるものは、日本の岡林信康、フォーク・クルセダーズ以降の、当時としては新しいフォークを指していたものと考えられる[8]。1974年には小森豪人編で全音楽譜出版社から『ニューフォークの旗手たち 吉田たくろうからチューリップまで』が発売されており、政治の季節から遠く離れ、もはや商業的な製品であることを隠匿しようともしないフォークは、ときにニュー・フォークと形容された[2]。1980年の矢沢保著『フォーク俺たちのうた』という本には「『新譜ジャーナル』は、拓郎ら新たに台頭してきたフォーク・シンガーをまとめて"ニュー・フォーク-第三の流れ"と紹介した」と書かれている[9]。
今日では死語になった70年代に活字メディアなどがネーミングした音楽ジャンルには「ニュー・フォーク」の他に「歌謡フォーク」[10]、「ジーンズフォーク」[11]、「アシッドフォーク」[10]、「アウト・フォーク」[2][4]などがあり、全て「ニューミュージック」という言葉に置き換えられ[10]、今日では言及されることは少ない。
主な世界のアーティスト
[編集]- ニール・ヤング
- ボブ・ディラン
- ジョニ・ミッチェル
- バフィー・セント・メリー
- ゴードン・ライトフット
- ピート・シーガー
- ウッディ・ガスリー
- マーティン・カーシー
- ユワン・マッコール
- イライザ・カーシー
- ニック・ジョーンズ
主な日本のアーティスト
[編集]関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h 「今年の夏はニューフォークでなくっちゃ 歌謡曲なんか吹っ飛ばせ、と意気込むニュー・フォーク集団」『週刊平凡』1971年7月1日号、平凡出版、18–19頁。
- ^ a b c d e 堀家敬嗣 (2021–09–01). “手紙社リスト音楽編VOL.5「堀家敬嗣が選ぶ、私のニュー・ミュージック 10曲」”. 手紙社. 2024年10月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年3月7日閲覧。
- ^ a b c d 「120曲のニュー・フォークを創った"日本のボブ・ディラン"」『平凡パンチ』1970年3月30日号、平凡出版、56–59頁。
- ^ a b c d e f g 高橋豊「ニュー★フォークが燃えている 若者の心をバッチリつかんだ四人の旗手」『サンデー毎日』1972年6月25日号、毎日新聞社、42–45頁。
- ^ a b c 「広告 日本音楽学院 「君もニュー・フォークを弾こう!! 一週間で弾き語り! 一ヵ月でPPM!! 六ヶ月で貴方はニュー・フォークのリーダー!!」」『新譜ジャーナル』1972年9月号、自由国民社、80頁。
- ^ https://www.nytimes.com/folk-city-new-york-and-the-ameri
- ^ “Biography”. ciscohouston.com. Cisco Houston. 1 February 2025閲覧。
- ^ a b c 「フォーク エクセル・ユア・ポップス FM東京(月―金)21:40-21-55」『深夜放送ファン』1974年4月号、自由国民社、27頁。
- ^ 矢沢保『フォーク俺たちのうた』(改訂新)あゆみ出版、1980年、61頁。 NCID BN11565436。
- ^ a b c 200CDフォーク編集委員会 編「フォーク・ミニ用語集序説/」『200CDフォーク 伝説の名曲からJ–フォークまで』立風書房、2003年、120–121,137,139頁。ISBN 9784651820606。
- ^ 『現代用語の基礎知識(1974年版)』自由国民社、1974年、1129頁。