伴鉄太郎
伴 鉄太郎(ばん てつたろう、文政8年(1825年)- 明治35年(1902年)8月7日)は、幕末から明治期の武士・幕臣、海軍軍人。階級は海軍大佐。
略歴
[編集]先手与力の桜井家から、御徒を務める伴家の養子に入る。嘉永4年(1851年)に御徒となる。安政3年(1856年)、箱館奉行支配調役並に任ぜられ、長崎海軍伝習所二期生となる。伝習終了後の安政6年(1859年)、軍艦操練所教授方出役となっている。万延元年(1860年)、咸臨丸の測量方として太平洋横断に成功した。
帰国後小十人格軍艦操練所教授方頭取出役、文久元年(1861年)、両番上席軍艦頭取に進む。文久2年(1862年)朝陽丸艦長を命じられ、小笠原島開拓に参加。その際、咸臨丸の見習士官であった根津、岡田、小杉を率いている。慶応4年(1868年)軍艦頭となった。
維新後も徳川家に従い、沼津兵学校一等教授となる。明治5年(1872年)海軍に移り、水路局長柳楢悦の副官を務めた。また、勝海舟、木村芥舟とともに『海軍歴史』の編纂に加わっている。
栄典
[編集]- 1889年(明治22年)11月29日 - 大日本帝国憲法発布記念章[1]
脚注
[編集]- ^ 『官報』第1936号「叙任及辞令」1889年12月10日。
参考文献
[編集]- 小川 恭一『寛政譜以降旗本家百科事典』
- 勝海舟『海軍歴史』明治22年11月、海軍省発行(近代デジタルライブラリー所蔵)