内田重成
内田 重成(うちだ しげなり、1868年2月18日(慶応4年1月25日[1][2][3])- 1965年(昭和40年)10月4日 [1][4])は、日本の裁判官、海軍法務官、政治家。最終階級は海軍法務中将。貴族院議員。旧姓は平井。山口県出身
経歴
[編集]長門国豊浦郡、のちの山口県豊浦郡内日村[1](現下関市 [1])で、清末藩士[2]・平井貢蔵の二男として生まれ[1][2][3]、1892年(明治25年)11月[3]、下関市清末の内田護の養子となった[1][2][3]。
関西法律学校(後の関西大学)、和仏法律学校[1][2](後の法政大学)卒業後、1890年(明治23年)12月、文官高等試験に合格[1][2][3]。1891年(明治24年)1月、司法官試補に任官し千葉地方裁判所詰となる[2][4]。以後、千葉区裁判所検事、弘前区裁判所判事、栃木区裁判所判事、前橋区裁判所判事を歴任[2][4]。1897年(明治30年)10月、海軍省に転じ、海軍主理・呉鎮守府司法部員に就任[2]。その後、海軍省司法部員、同省司法局員、横須賀捕獲審検所検察官、司法局長、高等軍法会議法務官兼法務局長、法務局長などを歴任し[2][3][4]、1925年(大正14年)3月に退職した[1][2]。
その後帰郷して、山口県教育会長として教育の振興を図り[1][4]、実業界では、山陽電気軌道(後のサンデン交通)社長、下関瓦斯(後の山口合同ガス)社長なども務めた[1]。
1928年(昭和3年)4月4日、貴族院議員に勅選され[2][5]、1946年(昭和21年)5月14日に辞任した[2][6]。