北川裕司
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 徳島県海部郡海南町 |
生年月日 | 1953年6月14日(71歳) |
身長 体重 | 182 cm 76 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 内野手 |
プロ入り | 1975年 ドラフト5位 |
初出場 | 1976年6月10日 |
最終出場 | 1978年5月23日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について |
北川 裕司(きたがわ ゆうじ、1953年〈昭和28年〉6月14日 - )は、徳島県[1]出身の元プロ野球選手。ポジションは内野手。
来歴・人物
[編集]海南高校では尾崎健夫、大石友好のバッテリーを擁し、甲子園には出場できなかったが強豪校として知られた。1971年(昭和46年)春季徳島大会で優勝するが、代表決定戦で徳島商(選抜代表校)に敗れ、四国大会には進めなかった。他の高校同期にセントラル・リーグ審判の谷博がいた。卒業後は大石とともに神奈川大学へ進学。神奈川五大学野球リーグでは在学中5度優勝。最優秀選手、ベストナイン1回[2]。
1975年プロ野球ドラフト会議でロッテオリオンズから5位指名され入団[1]。1年目の1976年から一軍に上がり、6月には遊撃手として2試合に先発出場を果たす。2年目の1977年は22試合に出場、6月には二塁手として3試合に先発。しかし1979年からは出場機会がなく、1980年限りで引退した[1]。
引退後は、打撃投手、球団マネージャー等を経て[3]、ロッテ皆吉台カントリー倶楽部の支配人を務めている。[4]
詳細情報
[編集]年度別打撃成績
[編集]年 度 | 球 団 | 試 合 | 打 席 | 打 数 | 得 点 | 安 打 | 二 塁 打 | 三 塁 打 | 本 塁 打 | 塁 打 | 打 点 | 盗 塁 | 盗 塁 死 | 犠 打 | 犠 飛 | 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 三 振 | 併 殺 打 | 打 率 | 出 塁 率 | 長 打 率 | O P S |
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1976 | ロッテ | 7 | 8 | 7 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | .143 | .250 | .143 | .393 |
1977 | 22 | 15 | 13 | 2 | 3 | 1 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | .231 | .231 | .308 | .539 | |
1978 | 6 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | .000 | .000 | .000 | .000 | |
通算:3年 | 35 | 29 | 26 | 4 | 4 | 1 | 0 | 0 | 5 | 2 | 0 | 0 | 2 | 0 | 1 | 0 | 0 | 4 | 1 | .154 | .185 | .192 | .377 |
記録
[編集]- 初出場・初先発出場:1976年6月10日、対近鉄バファローズ前期8回戦(宮城球場)、9番・遊撃手として先発出場
- 初安打・初打点:1976年9月24日、対太平洋クラブライオンズ後期13回戦(平和台球場)、7回表に野崎恒男から適時打
背番号
[編集]- 30 (1976年 - 1980年)
- 69 (1981年)
脚注
[編集]- ^ a b c プロ野球人名事典 2003(2003年、日外アソシエーツ)、183ページ
- ^ 神奈川大学野球リーグガイドブック
- ^ 〜プロ野球ニュースで綴る〜 プロ野球黄金時代 昭和球場物語(1)(川崎球場その五) - フジテレビワンツーネクスト 2015年10月19日視聴。
- ^ “ウェルカムメッセージ”. ロッテ皆吉台カントリー倶楽部. 2015年10月20日閲覧。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 個人年度別成績 北川裕司 - NPB.jp 日本野球機構