小黒丸城

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小黒丸城
福井県
小黒丸城跡碑
小黒丸城跡碑
別名 郡黒丸城
城郭構造 平城
天守構造 なし
築城主 斯波高経?
築城年 1337年(延元2年/建武4年)頃?[1]
主な城主 斯波高経
廃城年 不明
遺構 埋没?
指定文化財 未指定
埋蔵文化財
包蔵地番号
福井県No.01081[2]
再建造物 石碑
位置 北緯36度06分13.4秒 東経136度11分23.7秒 / 北緯36.103722度 東経136.189917度 / 36.103722; 136.189917座標: 北緯36度06分13.4秒 東経136度11分23.7秒 / 北緯36.103722度 東経136.189917度 / 36.103722; 136.189917
地図
小黒丸城の位置(福井県内)
小黒丸城
小黒丸城
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小黒丸城(おくろまるじょう/おぐろまるじょう)は、福井県福井市黒丸町にあった南北朝時代日本の城足羽七城の一つで、別名郡黒丸城。本城にあたる北西の大黒丸城と合わせて「黒丸城」と総称される[1][3]

概要

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九頭竜川足羽川の合流部に近い沖積地に築かれた平城である。集落名から「郡黒丸城」とも呼ばれる。大黒丸城とは約6キロメートルの距離がある[1]

築城年は定かでないが『太平記』によれば、北朝方で越前国守護斯波高経南朝方の新田義貞との間で越前における争乱が勃発し、延元3年/建武5年(1338年)2月の日野川の戦いで新田勢が斯波勢を越前国府から敗走させ、落ち延びた斯波高経が新たな拠点としたものが黒丸城である。

高経はこのとき、黒丸城周囲に支城として「足羽七城」(または足羽城)と呼ばれる複数の城塞群を築いているが、小黒丸城も「七城」の一つに数えられる場合がある[注釈 1]。なお『太平記』の中では、大黒丸・小黒丸という書き分けはなく一貫して「黒丸城」となっている[4]

黒丸城をめぐる戦い

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『太平記』によると、新田義貞らは延元3年/建武5年(1338年)5月から黒丸城と足羽七城に大規模な攻撃を開始した。5月2日の戦いでは撃退され、21日にも準備がなされたが、後醍醐天皇により義貞を京都へ呼び戻そうとする動きがあったため中断した。

そして、閏7月2日には30000の兵力で再び攻勢をかけた。しかし藤島城攻略に苦戦する自軍を督戦するため50騎の手勢で藤島城へ向かった義貞は、小黒丸城から出撃した斯波方の軍勢300と鉢合わせしてしまい、あえなく戦死する(藤島の戦い)。

その後の新田勢は弟の脇屋義助が中心となって尚も斯波高経と対峙し、延元4年/暦応2年(1339年)7月に黒丸城を攻略して一時は高経を加賀国石川県)に撤退させた。しかしその後奪還され義助は美濃国(岐阜県)に落ち、暦応4年/興国2年(1341年)までには越前全域は斯波高経が掌握することとなった[1]

現在は水田・宅地化しており、地表上に遺構は見られないが、石碑が建てられている[注釈 2]。また埋蔵文化財包蔵地としては「黒丸遺跡」として登載されているが、城跡という種別では記載されていない[2]

交通アクセス

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脚注

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注釈

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  1. ^ この時期の城跡は実際には7ヶ所以上あり、どの城跡を「足羽七城」に比定するかは諸説ある。
  2. ^ 城跡を示す碑は現在地より北方約50mの水田の台地上に建立されていたが、県営圃場整備事業による区画整理により昭和59年(1984年)6月現在地に移転改修された。

出典

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  1. ^ a b c d 平井ほか 1980 p.368
  2. ^ a b 「黒丸遺跡」(福井の文化財-埋蔵文化財)福井県公式HP
  3. ^ 平井ほか 1980 p.372
  4. ^ 兵藤 2015

参考文献

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  • 平井聖ほか 1980 「小黒丸城」『日本城郭大系第11巻(京都・志賀・福井)』新人物往来社 pp.368-369
  • 平井聖ほか 1980 「大黒丸城」『日本城郭大系第11巻(京都・志賀・福井)』新人物往来社 pp.372-373
  • 福井県の歴史散歩編集委員会 2010「九頭竜川をたどり永平寺へ」『福井県の歴史散歩』山川出版社 pp.39-41
  • 兵藤裕己校注 2015『太平記(三)』岩波書店

関連項目

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外部リンク

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