山脇正隆
山脇 正隆(やまわき まさたか、1886年(明治19年)3月2日 - 1974年(昭和49年)4月21日)は、日本の陸軍軍人、陸軍大将従三位勲一等功三級。
経歴
[編集]略歴
[編集]高知県甲原村(現:土佐市)で士族の家に生まれる。生家は山内家に代々仕えた土器(かわらけ)師の家系だった。
1900年広島陸軍地方幼年学校、1905年陸軍士官学校18期、1914年陸軍大学校(26期)卒業、首席により天皇より軍刀を下賜。1927年参謀本部編成班長。1929年参謀本部編成動員課長。1931年歩兵第22連隊長。1932年教育総監部第一課長。1934年3月ポーランド大使館付武官、同年8月陸軍少将に。1935年整備局長。1937年11月陸軍中将。1938年陸軍次官。1939年には次官職を陸士同期の阿南惟幾に譲り、第三師団長へ転出。 1940年3月1日、陸軍禁野火薬庫が大爆発現場の視察と罹災者への慰問を行う[1]。 同年駐蒙軍司令官に就任。 1941年4月、陸軍大学校校長[2]その後は参謀本部付、同年12月予備役。1942年9月に臨時召集によりボルネオ守備軍司令官。1944年9月に陸軍大将に昇進。第37軍司令官、参謀本部付。1945年5月召集解除。戦犯容疑で軍事裁判を受けるも数日で無罪になった。甲原川(波介川支流)で釣りをしている所を米軍によって連行された。その際に当時高級品だった竿を地元の子供に譲渡したとされる。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[3]。
戦後は高知県に居住。1954年高知県郷友会会長。妻と死別後、東京に転居。1963年から74年まで偕行社会長を務めた。土佐育英協会東京学生寮「土佐寮」舎監。
1974年4月21日に死去(88歳)。墓地はさいたま市青葉園。
備考
[編集]- 語学が堪能でドイツ語、フランス語、ロシア語、ポーランド語を流暢に話した。
栄典
[編集]- 勲一等旭日大綬章:1940年(昭和15年)4月29日
- 功三級金鵄勲章
- ドイツ鷲勲章大十字章:1940年(昭和15年)2月27日[4]
- イタリア王冠勲章大十字騎士章:1943年(昭和18年)6月2日[5]
脚注
[編集]- ^ 填薬作業中の過失が原因『大阪毎日新聞』(昭和14年3月3日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p214 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 陸軍次官に木村兵太郎中将『東京日日新聞』(昭和16年4月11日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p784
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」193頁。
- ^ 『官報』第3946号、昭和15年3月4日
- ^ 『官報』第4917号、昭和18年6月5日
関連書籍
[編集]- 明神慶昌(著)『平和を愛した最後の陸軍大将山脇正隆』リーブル出版、2007年。