岡市之助
岡市之助中将 | |
生誕 | 1860年3月28日(安政7年3月7日) 日本・山口県萩 |
死没 | 1916年7月20日(56歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1881年 - 1916年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 | 陸軍大臣 陸軍次官 第3師団長 歩兵第29旅団長 歩兵第22旅団長 |
戦闘 | 日清戦争 日露戦争 |
墓所 | 金戒光明寺 |
岡 市之助(おか いちのすけ、1860年3月28日(安政7年3月7日[1][2]) - 1916年(大正5年)7月20日[1][2][3])は、日清戦争から第一次世界大戦までの時期の、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。男爵。
経歴
[編集]長州藩士・陸軍1等軍吏、岡吉春(品川弥二郎の命で錦の御旗を密造した人物[4])の二男として萩で生まれる[1]。大阪外語学校を経て、1881年(明治14年)12月、陸軍士官学校(旧4期)を卒業[1][5]。
卒業後は歩兵第8旅団副官、歩兵第20連隊中隊長、陸士教官を歴任[1]。日清戦争には第1師団参謀として出征[1][2]。参謀本部第2部員、兼軍令部第2局員を歴任し、日露戦争では陸軍省軍務局軍事課長をつとめた[1][2]。1905年(明治38年)3月、陸軍少将[1][5]。歩兵第22旅団長、参謀本部総務部長、歩兵第29旅団長、軍務局長、陸軍次官などを経て、1912年(明治45年)2月、陸軍中将に進んだ[1][2][5]。
軍部大臣現役武官制改正問題では、次官でありながら木越安綱陸相批判の急先鋒となった[2]。第3師団長を経て、1914年(大正3年)4月、陸軍大臣に就任し[1][2][5]、上原勇作陸相以来の懸案であった2個師団増設を実現した[2]。陸軍長州閥の中心的存在であったが、1916年(大正5年)3月、健康上の理由のため陸相を辞して待命となった[1][2]。同年7月6月、日清・日露・第一次世界大戦の軍功により男爵位を授けられた[6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1895年(明治28年)
- 1900年(明治33年)5月31日 - 勲五等瑞宝章[11]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、勲二等旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[12]
- 1914年(大正3年)5月16日 - 勲一等瑞宝章[13]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[14]
- 1916年(大正5年)
- 外国勲章佩用允許
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、39頁。
- ^ a b c d e f g h i 『日本陸軍将官辞典』163頁。
- ^ 『官報』第1193号「官庁事項・官吏薨去及卒去」1916年7月22日
- ^ “大内文化まちづくり~甦れ歴史空間 錦の御旗製作所跡(山口市文化交流課)”. oouchibunka.jp. 2021年9月27日閲覧。
- ^ a b c d 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』62頁。
- ^ 『官報』第1180号「授爵・叙任及辞令」1916年7月7日
- ^ 『官報』第6538号「叙任及辞令」1905年4月20日
- ^ 『官報』第8073号「叙任及辞令」1910年5月23日
- ^ 『官報』第3671号「叙任及辞令」1895年9月21日
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日
- ^ 『官報』第5072号「叙任及辞令」1900年6月1日
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日
- ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日
- ^ 『官報』第1180号「授爵・叙任及辞令」1916年7月7日
- ^ 『官報』第2903号「叙任及辞令」1922年4月10日。
- ^ 『官報』第6433号「叙任及辞令」1904年12月8日
参考文献
[編集]外部リンク
[編集]公職 | ||
---|---|---|
先代 楠瀬幸彦 | 陸軍大臣 1914 - 1916 | 次代 大島健一 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 | 男爵 岡(市之助)家初代 1916年 | 次代 岡春雄 |