鄭君

鄭 君(てい くん)は項羽の将。鄭 栄(てい えい)ともいう。項羽の死後、漢には出仕せず在野の士として義侠を貫く。文帝期に没する。淮陽郡陳県の出身[1]

楚漢戦争期

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楚漢戦争期における鄭君の動向については、項羽の将であったこと、「君」の名号で呼ばれていたこといがいは詳細に欠く。『新唐書』宰相世系表の記述では、春秋時代のの公室にルーツをもつ鄭栄という名がみえ鄭君と称したとある。当時の記録に散見する地方の有力者とみてよい。項羽の死後、漢に帰属する。

漢高帝期

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漢王劉邦が皇帝位に就いた高祖五年(前202年)、高祖はそれまで項羽に仕えていた人材を諸官に起用しようとして、また彼らの帰順の軽重をはかろうとして詔を下す。「旧主を項籍と呼ぶようにせよ」 籍は項羽の本名()である。臣下が主君の本名を呼び捨てるのはほんらい非礼にあたる。高祖は項籍と呼んだ旧臣にたいしては大夫の爵位(秦漢二十等爵制の第5等)を授け官位をあたえる。しかし鄭君はただひとりこれを拒み、都から追放された。この一件で鄭君は遊侠の間に名を高めた。後裔に史書に立伝される鄭当時がいる[2]

参照

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  • 史記』列伝60 汲鄭列伝
  • 漢書』巻50 張馮汲鄭伝
  • 新唐書』宰相世系表5上(巻75上) 鄭氏

脚注

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  1. ^ 『史記』にみえる「陳人」は陳県出身者の意味。淮陽郡は漢高帝期に置かれた。(『漢書』巻28下 地理志)
  2. ^ 2者の関係は『新唐書』宰相世系表では「子」(栄は鄭君を号す、当時を生む)としているが、『史記』『漢書』では鄭当時の「先祖(先)」「大父」などとする記述がある。