SWS

SWS(エス・ダブリュー・エス)、スーパー・ワールド・スポーツSuper World Sports)は、かつて日本に存在したプロレス団体

メガネスーパーが新規設立した企業「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」が運営し、天龍源一郎を中心に全日本プロレス新日本プロレスなどから選手が集められて旗揚げした団体である。

1990年5月に新団体として旗揚げしたが、1992年6月をもってプロレス団体としての活動停止。

概要

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メガネスーパーの豊富な資金力を元に、既存するプロレス団体から選手・スタッフの引き抜き工作を行って新たな団体を旗揚げし、当時の「黒船」的存在としてプロレス界に大きな衝撃と激震を巻き起こした。SWS旗揚げ以前から(第2次)UWFなどへの大会後援で活動しており、1989年に水面下で異業種からのプロレス団体参画へ向けて動き出していた。早期からメガネスーパーの意を受ける形で海外のプロレス事情を視察するとともに、水面下で選手の獲得交渉に携わっていた中心人物として若松市政が挙げられる。

同年、アメリカのWCWに参戦していた新日本プロレス(当時)所属のグレート・ムタ武藤敬司)をエースとする構想で、サーキットを共にしていたケンドー・ナガサキ桜田一男)を通じてアプローチをかけたが[1]、武藤を獲得することは出来なかった[注釈 1]。武藤に代わるエース選手候補として藤波辰巳の獲得案も浮上していたとされる[注釈 2]

1990年、最初に新日本プロレスからの引き抜きを開始し、ジョージ高野佐野直喜がこれに応じて新日本を退団した後、SWSに入団[1]。4月にはエース候補として全日本プロレスを退団した天龍源一郎の獲得に成功する。また当時、全日本が提示していた複数年契約に難色を示した所属選手も全日本を退団し、SWSに相次いで移籍する[1]。ただし谷津嘉章を筆頭に、全日本や肖像権を管理する日本テレビとの契約期間中にもかかわらずSWSへ離脱した選手が存在しており、契約違反となった選手に関して全日本は後に法的措置を取っている。その結果、全日本プロレスから多くの選手・スタッフを引き抜いた形で集められた[注釈 3][注釈 4]

SWSはこれまでのプロレス団体と違い、選手達に高額な給料を支給していたことでも知られる。特に団体のエースでトップの天龍源一郎は当時、日本のプロ野球選手で最高額年俸だった中日ドラゴンズ落合博満選手並みの高給であったという[2][注釈 5]

9月29日、天龍の出身地でもある福井県福井市体育館において「越前闘会始」のタイトルでプレ旗揚げ戦が行われ、後に横浜アリーナ10月18日10月19日の両日に『闘会始'90』と銘打って正式な旗揚げ戦が行われた[3]。旗揚げ戦はテレビ東京で録画中継され、木村匡也がディスクジョッキー口調で実況を担当した[注釈 6]。その後はWOWOWの方で1991年3月から1992年3月まで1年間、月1回の割合で放送されていた。

SWSは大相撲で運用されていた『部屋別制度』をプロレス団体に導入する形で、今までのプロレス業界に存在しなかった画期的なシステムを取り入れており、部屋対抗戦をカード編成の主体とした。部屋として天龍源一郎率いる『レボリューション』、若松市政率いる『道場・檄』、ジョージ高野率いる『パライストラ』の計3部屋が置かれた[3]

しかし、この『部屋別制度』が次第に団体内部で派閥争いを招く温床にも繋がり、SWSのエースである天龍源一郎率いる『レボリューション』と、それ以外の2部屋との間で主導権争いが生じてしまった[3]

他にも1991年4月1日のワールド記念ホール大会で、レボリューション所属の北尾光司ジョン・テンタとのシングル戦の試合後に自らマイクを持ち、対戦相手のテンタに向かって「八百長」発言を連呼するという[注釈 7][注釈 8]前代未聞の不祥事を起こした。この『八百長』発言が後にSWS内だけに留まらずプロレス界でも大問題となり、最終的に北尾がSWSを解雇される事態となった[注釈 9]。これらのトラブルが続き、更に興行の不振も重ってしまい、SWSは短期間で崩壊することになる。

崩壊後は引き続きメガネスーパーが一定期間スポンサーとなることを条件に、天龍を中心とした「レボリューション」所属選手主体のWARと、反天龍派の「道場・檄」と「パライストラ」所属選手主体のNOWの2つに分裂した[4][注釈 10]

約2年弱で崩壊したSWSだが、それまで他団体が実施しなかった道場を解放しての「道場マッチ」を500円という低価格での開催や、その後の日本プロレス界の演出として定着する「一本花道」の採用、またWWF(現:WWE)との提携でスター選手の招聘を実現するなど[注釈 11]、画期的で斬新な試みを幾つか行った。一般企業を親会社に据え、その子会社としてプロレス団体を機能させる経営スタイルは当時としては珍しく「企業プロレス」と称されたが[注釈 12]、後に複数のプロレス団体が株式譲渡などによる運営会社の子会社化を図っている。

歴史

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この節の出典[5][4][6]

1990年

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  • 4月26日、天龍源一郎が全日本プロレス社長のジャイアント馬場と会談。辞意を了承され退団し、メガネスーパーが興す新団体参加の意向を明らかにする。
  • 4月27日、新日本プロレス所属のジョージ高野佐野直喜の2人が大会を欠場したことにより、両選手の新日本脱退が表面化。
  • 5月7日、新日本プロレスを退団したジョージ高野が、新団体に参加する意向を表明。
  • 5月10日、ホテルオークラで「株式会社メガネスーパー・ワールド・スポーツ設立発表会」が開かれ、田中八郎メガネスーパー代表取締役社長・富永巽総務部次長・天龍源一郎が記者会見し、SWSの発足を発表。
  • 5月15日、若松市政の入団と道場主就任を発表。
  • 6月5日、ジョージ高野の入団と道場主就任を発表。
  • 6月27日、新横浜仮道場完成披露パーティーで、ケンドー・ナガサキ鶴見五郎片山明が所属選手として出席。
  • 7月2日、全日本プロレスを退団したサムソン冬木高野俊二ほか5名の入団を発表。
  • 7月11日、石川敬士の入団を発表。
  • 7月12日・13日の2日間、第1回SWS新人オーディションを開催。元新日本プロレスの大矢健一、元全日本プロレスの平井伸和ら6名が合格。
  • 8月7日、全日本プロレスを退団したザ・グレート・カブキ谷津嘉章の入団および、元全日本プロレスの渉外部長であった米沢良蔵の取締役就任を発表。
  • 8月23日、アメリカから帰国した元新日本プロレス・佐野直喜の入団を正式発表。
  • 8月29日、大相撲七月場所終了後に力士を廃業した維新力の入団と、新倉史祐のフリー参戦を発表。
  • 8月30日、事業概要発表会披露パーティーがホテルオークラで行われ、3道場の正式名称と選手の振り分けを発表。
  • 9月29日、福井市体育館でプレ旗揚げ戦『越前闘会始』を開催。
  • 10月16日、ドン荒川の入団を発表。
  • 10月18日と19日の両日、横浜アリーナで旗揚げ2連戦を行う。
  • 10月21日、テレビ東京が横浜アリーナ2連戦の模様を録画放映。
  • 11月1日、新日本プロレスを退団した北尾光司の入団を発表。
  • 11月10日、新横浜仮道場で道場マッチ『登竜門』を開催。この日を含めて計5回開催された。
  • 11月20日、WWFとの2年間の業務提携締結を発表。

1991年

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  • 1月22日、無断欠場が続いていた高木功の解雇を発表。
  • 2月14日、週刊プロレスに対して取材拒否通達書を発送。同誌の山本隆司編集長もそれに対し「今後のSWSに関しての取材および、掲載を見送らせて頂きます」と宣言。
  • 2月24日、第2回新人オーディション開催。安良岡裕二・中原敏之が合格。オーディションとは別に川畑輝ら2名の入団を発表。
  • 3月13日、同じくメガネスーパーがスポンサーの新UWF藤原組(後のプロフェッショナルレスリング藤原組)との業務提携を発表。
  • 3月24日、提携先のWWF主催「レッスルマニアⅦ」に天龍と北尾が参戦。タッグマッチでデモリッションと対戦して勝利。レッスルマニアシリーズで初の日本人選手による試合となる。
  • 3月30日、東京ドームでWWFとの共催で『レッスル・フェストin東京ドーム』を開催。藤原組が初参戦。この大会からJBS(WOWOW=日本衛星放送)による放映が開始される。
  • 4月1日、ワールド記念ホールで『レッスル・ドリームin神戸』を開催。藤原組の鈴木みのるとの一騎討ちでのアポロ菅原の不可解な試合放棄事件、北尾光司対ジョン・テンタ戦で北尾が暴走の末に、反則負けとなった上にマイクを持ち「八百長野郎」との暴言を放ったいわゆる「北尾事件」が同日に発生し、トラブルが続発した。
  • 4月4日、緊急理事会を開いた上で北尾光司のSWS「解雇」を決議。引責として天龍が道場主、理事会長、取締役の辞任届を提出(その後、慰留されて職に留まる)。
  • 7月19日、田中八郎社長が「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」社長を退任し、新社長に天龍源一郎が就任。
  • 7月23日、阿修羅・原の入団を発表(前日付での入団扱い)。
  • 7月31日、伊豆大島トレーニングジム落成式開催。
  • 8月9日、横浜アリーナにてSWS1周年記念大会『紀元一年』を開催。
  • 9月13日、川崎市麻生区に落成した本道場を披露。
  • 10月12日、文化放送でラジオ番組「激闘!SWSプロレス」放送開始。
  • 10月14日、EMLLとの業務提携を発表。
  • 10月24日、EMLLの浅井嘉浩(後のウルティモ・ドラゴン)との契約を発表。
  • 12月12日、2度目(単独では初)の東京ドーム進出。『スーパー・レッスルin東京ドーム』を開催。

1992年

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  • 4月17日と18日、「THE BATTLE OF KINGS」2連戦を開催。テレビ東京が録画中継。
  • 5月14日、元選手会長の谷津嘉章が記者会見を開き、その席で辞意を表明。天龍派『レボリューション』と谷津・ジョージ高野派『パライストラ』『道場・檄』の対立が表面化。
  • 5月18日、天龍派と反天龍派が真っ2つに分かれたカード編成での新シリーズが開幕。
  • 5月23日、緊急理事会を開き、7月以降の天龍派と反天龍派の2派に分かれての活動を決定。
  • 5月25日、東京全日空ホテルにおいて、23日の理事会の決定事項を正式発表。SWSとしての興行活動の休止と、天龍派(WAR)と高野・鶴見五郎派の『パライストラ』及び『道場「檄」』連合(NOW)の2団体へ分裂が決定。
  • 6月19日、長崎国際体育館大会をもって、SWSとしての興行活動を終了。
  • 6月27日、反天龍派(旧『檄』『パライストラ』)がNOWの発足を発表。
  • 6月28日、天龍派(旧『レボリューション』)がWARの設立を発表。

他団体への影響

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当時、ジャンボ鶴田と並ぶ2枚看板の選手だった天龍源一郎を筆頭に、谷津嘉章などの中堅選手とスタッフを多く引き抜かれた全日本プロレス[注釈 13]は一時、崩壊の噂も流れて当時の東京スポーツでも『全日本プロレス 崩壊危機』とも報じられた[注釈 14]。しかし残留した三沢光晴川田利明小橋健太菊地毅ら「超世代軍」と、鶴田率いる田上明渕正信小川良成ら「鶴田軍」[注釈 15]との抗争を軸に据えた[注釈 16]

SWSへ選手・スタッフが大量に離脱してしまい、全日本プロレスは1972年の旗揚げ以来、最大のピンチが訪れた。しかし全日本は残留した選手の活躍や「SWSへ移った選手達に負けるな!」と、一致団結したこともあり勢いを盛り返した[注釈 17][注釈 18]。全日本の社長であるジャイアント馬場は、1999年1月に死去するまで天龍を始めとするSWSへの離脱組を再び全日本のリングへ上げなかった[注釈 19]。しかし天龍の全日本への参戦は、WAR社長の武井正智が主導となって幾度か交渉をした経緯がある。その交渉の際に馬場は「全日本が困った時には頼むかもしれないけど、今はいいから」と答えていたのもあり、完全な絶縁関係ではなかった[7][注釈 20]

だがその一方で、馬場から天龍が全日本に上がる条件として三沢たちに土下座をして謝罪することを要求する。しかし、天龍は馬場に頭を下げるのなら分かるが、三沢達に対して土下座をすることには納得出来ず、この話は御破算になったと発言している[8]。天龍の全日本への参戦は、馬場没後の2000年に選手の大量離脱で経営危機に伴い、全日本からのオファーによって実現した。後に天龍は、三沢をSWSへ引き抜く計画があったことを証言しており、天龍が「今の給料の倍は出せるからどうだ?」とSWSへ来るように話したところ、三沢は「僕は今の状態で満足ですよ」と返答しており、天龍は「酒席での話だから、このことは忘れてくれよな」と三沢に告げたという[1][注釈 21]

新日本プロレスからも選手が引き抜かれたが、過去に第1次UWF長州力ら『維新軍団[注釈 22]』の離脱など、度々大規模な離脱劇に見舞われた過去があるため、今回の様なことにも慣れていた新日本のフロント陣は早急な慰留工作を行い、主力級の選手はほぼ残留している[注釈 23]。同時に新日本からSWSへ離脱したジョージ高野佐野直喜に関しては、後に法的措置を取ったと同時に、星野勘太郎などベテランの選手が新日本道場に泊まり込んで若手を監視していたという[1][注釈 24]

SWSは武藤敬司のほかにも、藤波辰巳の獲得も狙っていた[9]。当時、新日本所属であった橋本真也は当時、週刊プロレスのインタビューで「プロレスにお金を出してくれる人のことを悪く書いたら、これからスポンサーになろうと思っている人も逃げちゃいますよ」と答えており、メガネスーパーがスポンサーとして存在したことに関しては肯定的意見を述べた[10]

第2次UWFについては、SWS設立の前年(1989年)に東京ドーム大会『U-COSMOS』のメインスポンサーをメガネスーパーが務めるなど、双方共に友好な関係だったこともあり選手の引き抜きはしなかった。その縁でSWSはUWF選手の出場を図っている。後に藤原喜明のSWS参戦を発表したが、これが元となってUWF内部に選手とフロント間の関係悪化を招いてしまい、UWF崩壊の遠因を作ることになる。

最終的にUWFが分裂に発展し、藤原・船木誠勝鈴木みのるらはメガネスーパーのスポンサード(事実上の傘下団体)を受けて新UWF藤原組[注釈 25]を旗揚げした。形式上のSWSとの業務提携を受けて、藤原組は当初「1か月のうちに1週間をSWSが拘束して興行に参戦する」という予定だったが、1991年4月1日に神戸大会で発生した鈴木対アポロ菅原戦での不可解な試合放棄事件以降、SWSと藤原組の関係は事実上凍結してしまい、両団体は数回参戦のみで終わった。

ユニバーサル・プロレスリング(前出のUWFとは異なる「ルチャリブレ」を中心とした団体)との関係では、当時ユニバーサルのエースでもあった浅井嘉浩(ウルティモ・ドラゴン)が、1991年9月にメキシコで参戦していたUWA(LLI)からEMLLに移籍した事で、日本での主戦場が10月にEMLLと業務提携したSWSへ自動的に移る事となった[注釈 26]。これに対し、ユニバーサルの代表である新間寿恒の父の新間寿(元新日本プロレス営業本部長)は「SWSによる引き抜き」と捉えて激怒し、SWSの事務所に乗り込むことを明言するなど一時関係が悪化したが、浅井のSWS参戦発表直前に仲介役を介して天龍と新間寿の直接会談が行われ、新間寿が態度を軟化させた[注釈 27]ことで浅井のSWS参戦が実現した。浅井が初参戦した10月29日の福岡国際センターの興行には、新間寿恒が花束を持ってリングに登場して浅井を激励しており、この後に浅井は同年11月に行われたユニバーサルの後楽園ホールの興行に「特別参戦」としてけじめを付けた後、SWS(「レボリューション」)の所属としてフル参戦(1991年12月の東京ドーム大会からは「ウルティモ・ドラゴン」として参戦)するとともに、EMLLの極東担当としてSWSに参戦するEMLL選手のブッキングの役割を果たすこととなった[11]

週刊プロレスとの軋轢

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SWSを批判的な論調で取り上げたのが雑誌『週刊プロレス』、及び当時の編集長の山本隆司(ターザン山本)だった。山本は天龍の番記者だった『週刊ゴング』の小佐野景浩が、天龍の全日本退団などの情報を自分たちより早く得ていたことから、天龍が小佐野経由で週刊ゴングに情報をリークしていたと決め付け、天龍とSWSに対するバッシング報道を開始。「『プロ(=プロレス)はお金である』ということがはっきりした」と表紙に掲載するなど、批判的な論陣を張った[12]。週刊プロレスが喧伝した「SWS=金権プロレス=悪」という印象は天龍の引き抜きを始め、その後も続いた既存団体からの実質的な引き抜きにネガティブな印象を抱いていた多くのプロレスファンに支持され、SWSは厳しい立場となった。

週刊プロレスはSWSへバッシングを始めた後も、しばらくは正規の取材を行い、誌面には試合の経過・結果や、写真なども掲載されていた。また、プレ旗揚げ戦『越前闘会始』には山本が自ら試合会場に赴き、取材を行っていた。しかし全日本プロレス時代の、天龍革命のような凄みは感じられなかったとして、誌面にはSWSおよび天龍についてのネガティブな記述が多くなっていく[12][注釈 28][注釈 29]。こうした状況が続き、また「プロはお金である」というバッシングの端緒になった評に対して、天龍は「お金で動いたとはいえない」など直接反論している[12]。一方で若松市政は「その『週刊プロレス』もSWSの情報を載せて下さっている。ありがたいです」と大人の対応も示していた。

そんな中、SWSが初めて開催する東京ドーム大会の広告が週プロ誌上に掲載された。これは週プロがSWSの大会を扱ったものとしては初めて掲載したもので、広告のデザイン・レイアウトは週プロ編集部が担当した[12]。しかしこの広告のレイアウトのミスと、クレーム対応の不手際が最終的にSWSの取材拒否に結び付くトラブルに発展する。発端はファイティングポーズを取る天龍の口元の部分に、「ドームに夢を見よ」というコピーの内の「夢」という文字が入ったふきだしが被さったことだった。SWS側は、天龍の口に黒いマスクを被せたように見えるとしてクレームを入れ、週プロ側ではそれを受けてデザインを修正する運びになった。しかし結局不手際により、修正前のデザイン広告が誌面に出てしまう。この不手際に関して週プロは「特に意図的ではない」としたものの、SWS側は「これは悪意に満ちている」と捉え、強い不信感を抱いた[12]。そしてこのトラブルを契機に、SWSは週プロに対して取材拒否を通告する。

取材拒否の通告を受け週プロは、表紙に黒色の背景で「2月15日の午後、SWS代表取締役の田中八郎氏より、取材拒否を意味した通告書が本誌・週プロに対し速達で届きました」と掲載。この時の誌面では事態の経緯と共に、関係修復を試みている旨を記したものの、これより数週後の誌面では「今後はSWSに関する、一切の情報の掲載を控えさせていただきます」と山本の編集長名義で回答し、双方の関係は回復することなく決裂した。この取材拒否はSWSの崩壊後も、後続団体のWAR創立当初まで続くことになった。また天龍個人は団体崩壊後もしばらくの間、週プロ(ターザン山本)に対して取材拒否を続けた。

2000年の『週刊プロレス スペシャル3』には、鈴木健による田中八郎への単独インタビューが、巻頭記事として掲載された。田中は同誌の取材に応じた理由を「プロレス界から身を引く際に、正式な挨拶が出来なかったので、改めて皆様に対して挨拶が出来ればと思いまして」とした。田中は当時を振り返って、「引き抜きというタブーを行ったことで週プロがアレルギー反応を起こすのは承知していたが、正直悪く書かれたくはなかった」「週プロさんは全日本との長い付き合いがあったことから、(自分たち)新しい団体に対して良いことを書きますってことは無い。しかし、ゴングさんとかはそういう色を出さなかった。それは編集長の見解の違いだったんでしょうね」と答え、山本の編集長としてのSWSに対する見解と姿勢には不満があったと語った[12]

なお、山本は同じ『週プロSP3』誌上で「膨大な資金力のあるSWSに付く方が本来ならいいんだけどさ、敢えて自分は馬場さんを支持する側に回ったのよ。他の全てを敵に回しても、馬場さんと共に負けるほうがいいと思ったんだよね」などと語っていた[12]。しかし後年、山本は馬場から金銭を受領し、その見返りとしてSWSをバッシングしていたこと、SWS崩壊後には「今後週プロ誌上では、実名を上げてのバッシング活動を一切行わない」という約束の見返りとして田中八郎から1年間に渡り、月50万円以上を受け取っていたことを暴露本で告白した[13][14][注釈 30]

早期崩壊の経過と原因

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SWSが約2年[注釈 31]という短期で崩壊した要因として、一部プロレス誌によるバッシング報道で悪い印象を与えられてしまい、その影響によってSWSはプロレスファンからの批判・反発などもあったが、それ以上に天龍派の『レボリューション』と、反天龍派である『道場・檄』『パライストラ』の2部屋との対立がかなり大きかったとされる[15][注釈 32][注釈 33]

SWSは元々が全日本・新日本・旧国際プロレス出身者が集まって旗揚げされた寄合い所帯であり、出身団体で培ったプロレス観や思考がそれぞれ異なっていたこともあり、旗揚げ当初から既に対立の火種を抱えていた。それでも純粋な部屋別対抗戦の域ならまだしも、実際は天龍派にマッチメイクなど団体自体の主導権を握られていた反天龍派の不信感は非常に根強かった[15]。新団体の旗揚げという始まりからすれば、3部屋は常に平等であることが理想的なのだが、マッチメイカーを天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強かった[注釈 34]。そのために、カブキが編成したマッチメイクには反天龍派からの不満と反感を買ってしまい[注釈 35]、これが元で天龍率いるレボリューション派への不信感と嫌悪を持たせる結果となり、派閥争いに拍車を掛ける形となった[注釈 36]

カブキがマッチメイクし決定した試合編成に納得が行かない反天龍派選手の中には、田中社長に直訴することで決定事項が覆ったともいわれる[注釈 37]。そのため反天龍派からの根強い抗議と反発に配慮して、天龍およびレボリューション派の選手がメインに出場する試合編成を変更し、他2部屋の選手がメイン試合に出場する編成へ組み直された。マッチメイカーのカブキはオープニングマッチ(第1試合)に力を注いだが、反天龍派は第1試合の出場を拒否する傾向[注釈 38][注釈 39]があったため、その時はカブキが第1試合に出場している。

寄り合い所帯のため各道場同士の信頼関係が希薄であり、お互いがシュートを仕掛けてくるのではないかと疑心暗鬼になっていた。そのため、反天龍派の中には天龍やカブキに対して「なぁ、今日はガチでやるのかよ」、「(シュートを)仕掛けて来たらただじゃおかないですよ」と、直接言って来た選手もいたという[注釈 40]

準備不足も手伝って各部屋が個別に道場を用意出来なかった点と、団体の「要」でもある本道場完成の遅れが『部屋の派閥化』傾向に拍車を掛けた[注釈 41]。旗揚げ当時に掲げたプランニングでは、3部屋ごとに専用の道場を全国各地に建設し、人材育成と選手による社会奉仕の構想も練られていた。しかし当初掲げた構想計画は早期に頓挫してしまい、実際は旗揚げ時に建設された新横浜の仮道場と、SWS発足から1年以上が過ぎた1991年9月、神奈川県川崎市百合丘に総工費7億円を掛けて完成した本道場[注釈 42]を提供したに過ぎず、結局この2か所を各道場毎に使い回しせざるを得なかった。この結果、部屋毎の独立色を打ち出せず「派閥の温床」になっていた[15][注釈 43][注釈 44]

小佐野景浩著の『SWSの幻想と実像』によると、当初から天龍をエースとした団体の方針に不満と違和感を持った選手が存在し、その中には「自分は理想と思想を持ってSWSに移籍して来た。天龍をエースとして盛り上げるためにここ(SWS)に来た訳じゃないから」と、心中密かに反発している選手もいたという[注釈 45]

また、反天龍派はWWFとの提携[注釈 46]で発生する高額な提携料や、選手に支払われるファイトマネーなども問題視しており「WWFと提携して高額な金を支払うのなら、海外のインディー団体から選手を招聘した方がファイトマネーも安く済むので、その分を自分達に還元して欲しい」と、反天龍派から不満の声が持ち上がっていた。

しかし、SWSはこの時、後発団体でかつバッシングの最中という立場にもあるために「他団体(ライバルの新日本・全日本など)がやれないことを、SWSではやってみようじゃないか」という天龍の目論みもあったため、敢えて反天龍派からの不満の声を押し切り、田中社長に了承を得た上でWWFと提携する決断をした。しかし、その天龍の考えと反天龍派との見解の相違が大きかったために、両者との不信感と確執を生むきっかけとなった[注釈 47]

また、旗揚げ前の構想では、各部屋がそれぞれ単独で興行を行って年に数回に渡り、部屋合同の対抗戦を開催する予定であったが、SWSがバッシング報道されている最中だったこともあり「レボリューション派を除いた2部屋が単独興行をした所で、観客が入らないだろう」と難色を示し、結局3部屋での合同興行となった。しかしレボリューション派からすると、他の部屋が泣き付いて来たにもかかわらず、再び反発して来るという身勝手な行動と捉えていたため、さらに天龍派・反天龍派との確執が深まる結果となった[注釈 48][注釈 49]

1991年4月1日に発生した「北尾事件」以降は、マッチメイク補佐役として『道場・檄』から谷津嘉章、『パライストラ』からドン荒川が新たに就任した。合議制を取ることで各部屋の意向をある程度反映される様に改善した。道場対抗戦では普段見られないタッグも組まれ[注釈 50]、選手間との関係は良好になり「派閥解消」かと思われた[注釈 51][注釈 52]。しかし部屋同士の対立は相変わらず続いており、結局派閥解消にならず確執がさらに深まる一方となる。そして1992年5月14日、選手会長だった谷津嘉章の記者会見上で突然の「選手会長辞任・SWS退団」発言により、一気に対立が表面化する形となった[15]

谷津が記者会見を行い[注釈 53]、SWSの社長かつエースである天龍を公然と批判したことで天龍派と反天龍派との派閥解消・関係修復は事実上不可能となり、この記者会見以降はSWS崩壊まで対抗戦を一切組まず[注釈 54]、天龍派と反天龍派が単独で組んだ試合カードを出し合って編成した[注釈 55]。マッチメイカーは天龍派の石川敬士・反天龍派の鶴見五郎がそれぞれ就任し、お互いに編成した対戦カードを照合して試合を組む形となる[注釈 56]

このような混沌とした異常事態の中で、SWSでは今後この様な状況で団体運営を続けるのは難しいと判断し、8月に予定されていた興行をキャンセルするなど団体としての幕引きへ向けて水面下で動きが進行していた[注釈 57]

5月22日の後楽園ホール大会では、興行開始前に内部混乱を招いた責任を取る形で谷津と同調する仲野信市の2人が、辞表を手にSWSからの「引退」を表明した。なおこの時に谷津と行動を共にしたのは仲野1人のみで、他の反天龍派の選手は同調せず[注釈 58]、引退はこの2人のみだった。またこの騒動に対し、プロレスマスコミが事情を知らず勝手に「谷津がSWSからの退団・引退を表明」などと憶測で書き立てたことに不満を抱き、谷津は「自分がこれまで言って来た主張を、マスコミはちゃんと報じていないじゃないか。もう引退って書いちゃっていいよ」と、半ば苛立ちながらマスコミを批判していた。

当時のファンやプロレスマスコミは、天龍源一郎とレボリューション派の選手を擁護する声が多くを占めており、会見の席で天龍やSWSを批判した谷津嘉章を始め、反天龍派の選手達は厳しく非難された。同大会で組まれた谷津・仲野の「SWS引退試合」では、観客の執拗な野次や激しいブーイングが起きて異常な雰囲気となる[注釈 59]。試合終了後は拍手すらなく、谷津はSWSとこれまで応援してくれたファンへ感謝と別れの意味を込めて、自身が着ていたジャージを脱いで客席に投げ込んだものの、逆にそれを観客から投げ返されてしまうなど、この一件に関してファンの反応は非常にシビアだった[16]

5月23日にSWSでは事態収拾のため、取締役を含めた役員が出席して緊急理事会を招集。この会議でSWSの団体活動休止を決定し、正式な記者会見は2日後の25日に行われた。天龍派は「レボリューション」を母体に「WAR(レッスル・アンド・ロマンス)」を、反天龍派は「NOW(ネットワーク・オブ・レスリング)」をそれぞれ設立した。メガネスーパーはそれぞれ各団体に対し資金援助を行ったが、その援助も継続的ではなく『期間限定』で行い、WARには2年間・NOWには1年間のスポンサー料提供で終了した。

NOWのプレ旗揚げ戦(8月9日)から1ヶ月後の9月10日に発売された『週刊文春』誌上で、ジョージ・俊二の高野兄弟による「俺たち、メガネスーパーに騙された」との見出しが付けられ、これまでによるSWS騒動の顛末と、社長をはじめとするメガネスーパーの会社組織自体を痛烈に批判する手記が掲載された[注釈 60]

この批判記事の掲載とその影響により、高野兄弟はプレ旗揚げ戦のみでNOWを離脱する運びとなり、後に谷津・仲野を発起人に加えた「PWC(プロ・レスリング・クルセーダーズ)」を旗揚げする。しかし発起人として名を連ねた谷津・仲野は実際はPWCへ参加せず、新たにプロレス団体のSPWF(社会人プロレス連盟)をSWS崩壊直後の1992年6月に発足し、1年2か月後の1993年8月に旗揚げ試合を行った。NOWはエース候補だった高野兄弟に代わり若手の維新力浩司をエースに抜擢し、ベテランの上田馬之助を参戦させて維新力との抗争を繰り広げ、話題作りや地道な活動を続けた。しかし興行成績は振るわずに低迷し[注釈 61]、NOWは団体活動を休止した。

WARに関しては旗揚げ当初、天龍が一枚看板のエースとして新日本プロレスとの抗争を軸に盛り上がりを見せたが、スポンサーであるメガネスーパーがプロフェッショナルレスリング藤原組の東京ドーム大会の目玉カードとして天龍の出場を要請してきたが、新日本プロレスとの抗争が始まったばかりという事情もあり、新日本との対戦を主にしたい天龍が要請を断ると、すぐに約束されていた2年間の資金援助が途中で打ち切られ、新日本プロレスとの対抗戦が一段落した後はFMWをはじめとしたインディペンデント団体・UWFインターナショナル・女子団体であるLLPWなど幅広く交流を進めて独自路線で話題を振り撒いたが、これらの路線の全てが成功したわけではなく徐々に観客動員数は下降線を辿っていき、選手の離脱[注釈 62]などもあり、興行会社として業務形態を変更した後、余力のある内に経営を停止している。

一方で分裂後はWAR・NOWのいずれにも参加しなかった選手もいる。ドン荒川はSWS解散後、唯一メガネスーパーの社員となり『SWS所属』の肩書で活動し、佐野直喜はUWFスタイルへの共鳴もあり、SWS活動停止後はUWFインターナショナルに移籍した。若手の中原敏之も佐野と行動を共にしUWFインターナショナルに入門したが、再デビューを果たせず引退している。また、片山明は活動停止前となる1992年1月の大阪大会で、コーナーから場外へ飛び技を仕掛けた際に誤って床下へ落下してしまい、頸椎脱臼骨折の重傷を負って事実上リタイアを余儀なくされ、現在もリハビリ中である。若手の山中敏也[注釈 63]も1991年10月に脾臓破裂の重傷を負った後遺症もあり、団体活動停止とともに引退した。

SWSの団体活動は、6月19日の長崎国際体育館大会をもって最終興行を終了する。また事実上のSWS傘下団体となっていたプロフェッショナルレスリング藤原組も、1992年12月に内紛[注釈 64]が発生して興行活動を停止。これでメガネスーパーはプロレス業界から完全撤退となった[15]

SWSは旗揚げしてから2年間にかけて、およそ99億円をプロレスに投資したとされる[17][注釈 65][注釈 66]

その他

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SWSはメガネスーパーによるスポーツ事業[注釈 67]を扱う子会社「メガネスーパー・ワールド・スポーツ」の一事業であり「プロフェッショナル・レスリング事業部」部門がプロレス団体としての機能を持っていた。SWSは活動停止後も会社組織としてはしばらく残り、ただ1人残留したドン荒川は「SWS所属」を名乗り出て活動していた[18][注釈 68]。SWSの設立直後に成文化された公式ルールを制定し、旗揚げ戦のパンフレットに掲載された。

現在の各団体のビッグマッチには欠かせない「一本花道」を、日本で初採用したプロレス団体である。提携していたWWFの演出方法を参考にしたもので、1991年6月10日の愛知県体育館大会から採用された[15]。一本花道は後に新日本プロレスや、プロレスリング・ノアでも採用している。演出面に関しては大手広告代理店博報堂とタイアップしていたとされている[19]

旗揚げ当初、リングに『闘いのパオ』と称したテント状のシートを覆い被せ、試合開始直前に緞帳のように引き上げる演出を行っていたが、評判が良くなくすぐに取り止めている。

SWSの施設として、新横浜の仮道場と川崎市百合丘の本道場の他に、サイパンや伊豆大島にも合宿場があったとされる[17]

新横浜にあったSWSの仮道場で行われていた「登竜門」という道場マッチは、若手選手主体で開催されており、天龍源一郎やジョージ高野などの主力選手は出場しなかった。この試みは、普段選手達が練習している道場を一般公開して興行を行う目新しさもあり、500円という低料金の入場料で観客を集めて好評を博した。現在でもこの「道場マッチ」に関して、単独で道場を構える団体が頻繁に行う興行の始まりともいえる。

3道場と実質的な傘下団体であった「プロフェッショナルレスリング 藤原組」の他に、SWSでは当時経営難に陥っていたパイオニア戦志ごとSWSに吸収し、北尾光司をエースに立てた別動隊の母体としようとする構想があり、実際にパイオニア戦志の代表であった剛竜馬が支度金を受け取っていたという。しかし、それまでの剛との数々のトラブルや因縁などで選手会のほぼ全員からの猛反対を喰らってしまい、別動隊の動きは立消えとなっている[20][注釈 69]

テレビ中継に関しては、プレ旗揚げ戦「越前闘会始」を地元の福井放送のみで後日放映したのが最初である。同様の形で1990年11月に行われた「浜松闘会始」も地元局のみで後日放映されたが、当初予定されていた静岡第一テレビではなく、テレビ静岡で放映された。

前述した旗揚げ戦の中継は、2日間開催した大会を編集して、テレビ東京「日曜ビッグスペシャル」の枠で放映したものである[6]。前出の木村匡也のほかに、杉浦滋男四家秀治などのテレビ東京アナウンサーが実況を務めていた。杉浦は団体後期も含め、WARの試合中継でもそのまま実況を担当していた[注釈 70]。なお、番組内で付けられていた木村の肩書きは「SWS専属アナウンサー」であった。

1990年の首都圏旗揚げ興行になった横浜アリーナ大会2日間の模様は、一部の試合が編集された上で後にVHSビデオとして発売された。現在この大会を納めたVHSビデオソフト以外の試合DVD・ブルーレイは未発売である。

1991年3月30日からはWOWOWで放送開始[6][注釈 71]。第1回目は1991年3月30日の「レッスルフェストイン東京ドーム」大会を生中継で放送した。その後は月1回・120分枠または90分枠の録画中継が行われたが、1992年3月28日「昇龍激闘」3.18新潟大会の放送をもってWOWOWでの1年間の放送を終了した。さらに後にはテレビ東京と契約し[6][注釈 72]、「激闘SWSプロレス」のタイトルでWOWOWの中継と同じ月1回・60分枠の中継[注釈 73]が開始された。「激闘SWSプロレス」は、当時団体自体のスポンサーになって間もない西松建設が番組を単独で提供していたが、放送枠内でメガネスーパーのCMも流れた。

テレビだけでなく、ラジオ局の文化放送でも週1回の30分枠でSWSの情報番組があった。試合の実況中継[注釈 74]も交えた非常に珍しいスタイルだった。SWS崩壊後はWARNOW両方とも中継した[6]

Vジャンプの増刊号時代での創刊号に、SWSを舞台にしたプロレス漫画『闘竜王(ティラノ)ザウラー』(画:黒田ひろし)が掲載された。SWSの将来を担うレスラーとして秘密裏に鍛えられていた青年が、恐竜をモチーフにしたコスチュームに身を包み、SWS崩壊を狙う悪の団体と戦うというストーリーで、タイガーマスクのようにタイアップして現実とリンクするかと思われた。しかし、創刊号での掲載後に不定期で2話のみが掲載された後に終了しており、実際にリングに上がることはなかった。

2015年11月15日に行われた天龍プロジェクト主催の『天龍源一郎引退試合』では、メガネスーパーがスポンサーで協賛していた。また団体分裂の契機となってしまった天龍と谷津の確執は、団体分裂後も引き続き没交渉状態となっていたが、2021年2月に後楽園ホールで行われた「ジャイアント馬場23回忌追善興行」に天龍と谷津が全日本のOBとして参加。両者が同席して会話を交わしたことが契機となって和解し、2022年年4月には天龍・谷津のトークイベントの開催に至っている。その際には当時のSWSの状況についても語られた[21][22][注釈 75]

タイトル

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  • SWSタッグ王座
  • SWSジュニアヘビー級王座

WWFと業務提携を結んでいた関係で、SWS王座はWWFが認定する王座とされていた。なお、WWFとの業務提携が決まった後、新日本プロレスが返上し、休眠状態にあったWWFインターナショナル・ヘビー級王座WWFインターナショナル・タッグ王座WWFジュニアヘビー級王座を、SWSで復活させようとするプランが持ち上がったが、こちらは立ち消えとなり、独自の王座を認定している。また、タッグ王座とジュニアヘビー級王座は作られたが、ヘビー級王座は認定されないまま活動休止、解散となっている。

所属選手

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この節の出典[23]

レボリューション

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道場「檄」

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パライストラ

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スタッフ

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レフェリー

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リングアナウンサー

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スタッフ

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来日外国人選手

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この節の出典[25]

WWF
EMLL
その他

関連書籍

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  • 小佐野景浩『SWSの幻想と実像』日本スポーツ出版社、1999年。ISBN 4-930943-24-8 
  • 『永久保存版 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 スポーツアルバムN0.52』ベースボール・マガジン社、2015年、63-70頁。ISBN 978-4-583-62282-8 
  • 『日本プロレス事件史Vol.8 移籍・引き抜き・興行戦争』ベースボール・マガジン社、2015年、22-27頁。ISBN 978-4-583-62269-9 
  • 『日本プロレス事件史Vol.12 団体の"誕生、消滅、再生"』ベースボール・マガジン社、2015年、51-57頁。ISBN 978-4-583-62325-2 
  • 『B.B.MOOK1262「SWSプロレス激闘史」』ベースボール・マガジン社、2015年。ISBN 978-4-583-62364-1 

脚注

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注釈

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  1. ^ 武藤はメガネスーパーが新規に旗揚げするSWSからの引き抜きには快く応じており、移籍するために新日本プロレス社長(当時)である坂口征二の元へ退団の挨拶をしたものの、坂口社長がその場で引き止めてメガネスーパーの田中八郎社長に電話で「武藤はそちら(SWS)へ行かせません」と断りの連絡をしており、移籍及び退団を認めなかったことを証言している。
  2. ^ なお当時の藤波は、腰痛で思うような試合が出来ずに悩んでおり、SWSへ移籍しても期待通りの試合が出来ないという理由から、引き抜きの話が来たとしても移籍は考えなかったと発言している。
  3. ^ 当初の構想でSWSは、当時新日本の若手で成長株だった武藤を引き抜き、団体のエースとして盛り立てながら練習生を募集して一から育成する形を取り、月日を掛けて団体を運営する予定だった。しかし武藤の引き抜き作戦に失敗した後、来る(獲れる)とは思わなかった全日本の大物でエース格の天龍源一郎を獲得出来たために、それに付随して後から多くのベテラン・中堅選手が移籍して来たこともあり、SWSは当初の団体構想を大幅に変更することになったともいわれる。また田中社長は「思わぬ大物(天龍)が獲得出来ちゃったので、この人を宙ぶらりんにして遊ばせておく訳には行かない」として、団体の旗揚げを早急に進めたと証言している。2000年6月、全日本プロレスの大半の選手・スタッフが離脱して旗揚げされたプロレスリング・ノアもSWSとほぼ同じ様に、当初の団体方針とは違った道を歩むことになった。
  4. ^ 元全日本の高木功によると、全日本プロレスが天龍をはじめ他の選手が相次いで離脱して騒動になっていた頃は怪我で試合を欠場しており、この内部事情を全く把握出来ていなかった。その際に、SWSへ移籍を決めたある選手から「いずれ全日本プロレスは潰れるから」と聞かされ、その流れでよく分からずにSWSへ移籍してしまった、と後年YouTubeのインタビューで語っていた。なおその際には谷津嘉章も、高木に追尾して一緒にSWSへ移籍している。高木はSWSについて「俺には一体、何をしたかったのかよく分からない団体だったね」と嘆き気味に話している。なお高木は1991年1月22日付けをもってSWSを解雇されているため、数ヶ月のみの在籍となった。
  5. ^ 2024年3月30日のアポロ菅原によるdropkick1万字インタビューによると、入団時期により契約金を貰えた選手とそうでない選手がいた模様で「僕は(契約金を)貰わなかったですね。それは早い者勝ちじゃないですか(笑)」と話している。菅原はやや遅れて90年9月にSWSへ入団しており、国際プロレス時代の先輩だった若松市政に「君、こっちへ来てくれるんだよね?」と声を掛けられたのがきっかけだという。また給料面についても「他団体(新日本や全日本)と比べても、SWSが1番良かったくらいですね。金銭面では」というものの、インタビュアーから「そういう点でも新日本を辞めて良かったですか?」と問われた際は「金銭面だけで考えれば確かに良かったんですが、それは金だけじゃないんですよ」と複雑な心境を語っている。
  6. ^ 当時担当した木村の話によると、この実況に関してプロレスファンからの評判は芳しくなかった上に、ほとんど受け入れて貰えなかったという。なおプロレスの実況担当はSWS中継のみである。
  7. ^ 試合後にリングを降りた北尾は、マイクを片手に憤りを隠せないリング上のテンタに対して「八百長野郎この野郎!、八百長ばっかりやりやがって!!」と怒鳴り付けるように言い放ち、会場内は騒然となり激しいブーイングが沸き起こった。続いて観客に向けて「お前ら、こんな物を観て面白いのか!」と口にする。控室へ引き上げさせる選手の制止を振り切り「この八百長野郎!、八百長!!」と最後まで暴言は続いた。控室へ戻った後も北尾は「フリー、フリー!もう辞めた!!」と怒鳴り散らしながら暴れて収拾も付かず、試合内容およびその態度を注意したザ・グレート・カブキとは取っ組み合いの乱闘を展開し、同じく態度を叱責した社長夫人の田中由子にも暴言を口にし、更に椅子を思い切り夫人に対して投げ付けるなどの大荒れとなった。この騒動についてカブキは北尾の八百長発言を振り返り「ああ、ついにやらかしちゃったなって…。だから俺は最初から横綱(北尾)のSWS入団には反対したんだよ」と語っている。
  8. ^ 北尾光司逝去後に船木誠勝が自身のYouTubeチャンネル内で語った所によると、北尾の例の発言(八百長発言)以上に、田中夫人に椅子を投げ付けてもし直撃していたら怪我だけでは済まなかったために、この行為は非常に悪質だったと批判的に語っていた。また同じ八百長発言(北尾事件)が起きた神戸ワールド記念ホールに居合わせていた谷津嘉章も、自身のYouTubeチャンネル上で船木と同様の発言をしている。またこの日を境に、田中八郎社長の選手に対する捉え方や対応が以前とかなり変わってしまったという。
  9. ^ 北尾の騒動と処分に関して翌日、田中社長と役員が集結して緊急会議を開き、社長の判断で北尾に「罰金および謹慎処分」を決定した。しかし、この軽くて甘過ぎる処分に対して(田中社長は北尾を擁護する発言もしたため、疑問視する声が上がっていた)反天龍派とマスコミ、プロレスファンから非難の声が多く出た。この甘過ぎる処分に納得が行かない一部選手からは「こんな処分で(北尾が)許されるなら、自分からSWSを出て行きますよ!」と、強い抗議もあり険悪な状況となる。この非難を受けてSWSは改めて北尾を『解雇』という重い処分とした。田中社長は後日マスコミの会見に応じ、北尾に対して軽く甘過ぎた処分および擁護する発言を訂正し謝罪する。この「北尾事件」は、団体のまとまりの無さを象徴していた出来事ともいえる。
  10. ^ ただしNOWは、元バライストラ所属だった高野兄弟の週刊誌によるSWSと、メガネスーパー自体を痛烈に批判するインタビュー記事が掲載されたこともあり、ほとんど関わらずに高野兄弟はNOWから姿を消している。また他の理由として、NOWは元「道場・檄」の選手を主体に団体を運営して行く方針であったが、元「パライストラ」所属の高野兄弟がこれに不満を抱いたためであるといわれている。
  11. ^ ただしSWSでは、このWWFとの提携で発生する選手招聘のために高額な提携料、ファイトマネーの支払いに関して反天龍派から問題視する声が出ており、提携には強い反対意見が出されていた。しかし天龍は、社長としての判断によって反対の声を押し切った形でWWFとの提携を結んだが、これが発端となり天龍派・反天龍派の間で見解の相違が生じてしまい、確執の要因にも繋がった。
  12. ^ しかし1990年当時、日本のプロレス業界は他団体から選手の引き抜き(金銭での引き抜きを含む)はタブー視されていたため、SWSは企業プロレスというよりも「プロレス界の黒幕」「金権プロレス」と称され、バッシング報道を含めて批判の標的にされた団体ともいえる。
  13. ^ 最終的に全日本プロレスから離脱したのは選手、スタッフを含めて14人にのぼっている。また、サムソン冬木はSWSに離脱した天龍との不仲説が囁かれていたこともあり、全日本へ残留すると思われたがそれを覆してSWSへ移籍している。これについてジャイアント馬場週刊プロレスのインタビューで「冬木は(天龍との不仲説があったため)全日本に残ると思っていたんだが…」と語っている。馬場は国際プロレスから全日本へ移籍した当時から若手選手の冬木を評価していた。1999年1月31日に馬場が死去した際に、冬木は「結婚式の仲人までして頂いたのに、自分はSWSへ移籍してしまった。その時は申し訳ありませんでした。謹んで御冥福をお祈り致します」と追悼するコメントを寄せている。
  14. ^ 天龍が離脱した後に行われた5月14日の全日本東京体育館大会で、馬場は自ら鶴田とタッグを組んでテリー・ゴディスティーブ・ウィリアムス組と対戦した。しかし、馬場がゴディにコーナーポストへ振られた際に背中を強打してしまい、体が痺れてそのままゴディにフォールされて敗れた。この日、会場の外は雨模様となり馬場がリング上で動けない姿(この際、鶴田は馬場に背中へストレッチを実施している)を目の当たりにしたファンは「もう全日本は終わってしまうのかな…」と不安視する様になってしまい、全日本にとって最も暗い1日となる。
  15. ^ 「鶴田軍」は改題をしており、鶴田が戦線を離脱した後は「聖鬼軍」として再び活動を始めている。
  16. ^ 馬場は全日本からSWSへ移籍した天龍と、レフェリーである和田京平の2人は親交が深かったことを把握しており、天龍が「京平を(SWSに)連れて行きたい」と申し出て来た際には引き留めず、快く送り出す気持ちでいたという。
  17. ^ ジャンボ鶴田は当時、週刊プロレスのインタビューで「10年後には、他団体(SWS)に出て行った選手を見返してやるつもりで頑張りたいです」と語っていた。また小佐野景浩の著書によると、天龍のSWS離脱に関して当初は「全日本を離れる前に一言、僕に相談くらいはしてほしかったと思う。なので正直、天龍の心境が僕には理解出来ないんですよ」と批判的だった。しかし、鶴田は後に天龍から直接電話があり、全日本を辞める旨と別れの言葉を伝えられた所、これまで天龍に憤っていた鶴田の姿勢がかなり軟化したという。また、1999年3月に現役引退の際にも、天龍が鶴田に電話で労いの言葉を掛けている。
  18. ^ 鶴田は1999年3月の引退後に行われた週刊プロレスのインタビューで「正直な話、あれだけ良い選手が沢山(SWSへ)抜けてしまったので全日本は一体、どうなるんだろうという不安はありましたね」と胸の内を語っている。また当時、SWSからの誘いがあったかという問いについて鶴田は「実際に、話はありました」と回答している。また田上明もYouTubeのインタビューで「田上さんはSWSからのオファーや、引き抜きの声は掛かりましたか」との質問に対して「まあ…。来ないことは無かったな(笑)」と、含み笑いを交えて答えた。
  19. ^ ジャイアント馬場の意向として「過去にうち(全日本)でトラブルを起こした選手と一切関わらないし、リングには上げない」という方針を取っていた。SWSに離脱した選手達はそれに該当する。
  20. ^ 全日本を離脱したザ・グレート・カブキは、SWS入団記者会見で「全日本に残った選手に何かメッセージはありますか?田上選手とか…」との質問に「それはもう全日本で頑張って貰いたいですね」と、エールを送っている。SWSが崩壊した後に、カブキはノアを旗揚げした三沢・田上らとの交流を再び深めており、絶縁した訳ではなかった。
  21. ^ 天龍はSWSの他団体からの選手引き抜きをマスコミが批判する報道を始めた頃に、週刊プロレスのインタビュー(聞き手は市瀬英俊)で 「選手の引き抜きをしているとは言えない」と反論している。しかし後に三沢の引き抜き企画を自ら告白したため、週刊プロレスに対する天龍の反論は矛盾していたといえる。また天龍は後に「SWSに来たいという選手を受け入れない訳にはいかない」と他団体から離脱した選手を受け入れる発言をしたり、さらに田中八郎社長が「これまで選手の引き抜きを行わないという発言を撤回いたします!」と火に油を注ぐ宣言を記者会見で発表したため、SWSの選手引き抜き報道・バッシングは更にエスカレートしていった。
  22. ^ 後にジャパンプロレスへと発展している。
  23. ^ 新日本プロレスは選手が一致団結して合同合宿を実施し、結束をアピールしてライバル団体のSWSに立ち向かう体制を取った。また、天龍が離脱した直後に行われた1990年5月14日の全日本東京体育館大会に藤波が訪れ、馬場と会談して協力することを約束している。
  24. ^ SWSが新日本の選手引き抜きを開始していた頃、獣神サンダーライガーはSWSへ対して痛烈に批判しており、さらに「俺を新日本から引き抜きたければ、20億円用意しろ!だったら(SWS移籍を)考えてやるよ」と憤りながらコメントをしている。
  25. ^ 後にプロフェッショナルレスリング藤原組と改称している。
  26. ^ 浅井のEMLL移籍に前後して、SWSはザ・グレート・カブキを介してEMLLとの業務提携の交渉を行っていた。EMLLとの業務提携の成立により、中堅の折原昌夫と若手の中原敏之は1994年2月からSWSの崩壊直前までメキシコに遠征し、EMLLでは「イガ(折原)&コウガ(中原)」なるマスクレスラーのタッグとして活動している。
  27. ^ 新間はこの会談で天龍の態度を称賛したことで態度を軟化させたとされる。接点を持った天龍はWAR設立後にアントニオ猪木への「対戦要望書」を新間寿に託すこととなった。
  28. ^ 天龍は、山本が当時SWSや自身に対して書いた批判、バッシング記事をSWS崩壊から30年以上が経過した今でも快く思っておらず、現在も和解は出来ていない。また山本は長州力とも未だに良好な関係ではなく、平行線を辿り続けている。また天龍はそれ以外にも1995年4月2日にベースボールマガジン社が主催した「夢の架け橋」の開催と、同日のWAR後楽園ホール大会と重なってしまったということがあり、WAR社長の武井正智とベースボールマガジン社の社員と話し合いの場を持って夢の架け橋の参加を依頼したが、武井社長は「後楽園大会は事前に決まっていた興行なので、ベースボールマガジン社さんの「夢の架け橋」興行には参加を遠慮させて頂きます」と丁重に断り、ベースボールマガジン社側もその意見を尊重し「WARさんにも事情や立場がありますから、逆に参加を要請した我々が無理なお願いしてしまって誠に申し訳ありません。またこういう機会がありましたら是非宜しくお願い致します」と双方で円満に話し合いを終え、武井社長も「ベースボールマガジン社の方々に、こちらの事情を分かって貰えて嬉しかったです」と好意的なコメントをしていた。しかし山本隆司は後にWARに対して無礼で失礼な発言をしたため、後年になって武井社長は「あの時、山本さんが私に言い放った発言は絶対に許せませんね」と語っている。このことも天龍は快く思っていない。
  29. ^ なお天龍は週刊プロレス自体を特に嫌ってはおらず、山本隆司が編集長を辞任した後はSWS含めて「WAR」でも継続していた取材拒否は解除された。また選手へのインタビューも解禁しており、天龍も快く応じている。試合経過の記事なども通常通り掲載を再開した。また週刊プロレスへの取材拒否を解除する旨を武井正智社長自らWARの会場(両国大会)で発表した。取材拒否解除を告げた後、会場からは暖かい拍手が送られている。
  30. ^ ただし山本は、全日本プロレスがSWSの旗揚げにより選手が大量離脱して崩壊危機と報じられている際に、山本自らが「なら私がSWSを叩きましょうか!」と馬場に申し出たという話もあるため、詳細は明らかになっていない。また田中社長の月50万円の受け取りに関しても、田中社長はその事実を明らかにしていないために、詳細は不明となっている。また山本が執筆した暴露本は馬場・田中八郎社長の他界後に出版していることもあり、山本の信憑性も疑われる。
  31. ^ プロレス団体興行としては、福井の旗揚げ大会から数えると1年9か月ほどで団体は崩壊している。
  32. ^ 谷津嘉章はdropkickのインタビューで、元全日本の選手・元新日本の選手とはSWS旗揚げ時から仲が悪い上に普段から一切顔を合わすことも無く、移動も常に別行動でお互いに口すら聞かなかったという。また天龍派・レボリューションのリーダーだった天龍と、反天龍派・パライストラのリーダーであるジョージ高野とは普段から親交が全く無かった。谷津は2人との仲を取り持つために「天龍さん、そう言わずにジョージも話の輪に入れてあげてよ」「ジョージ、お互いに仲良くやっていこうよ」と説得をしており、選手会で話し合いがある度にご機嫌取りばかりしていたと語っている。
  33. ^ ザ・グレート・カブキは「SWS失敗の原因として『週刊誌によるバッシングがあった』とか言われますけど、自分は全く関係なかったと思います。やっぱり試合だから。試合が良ければバッシングだって宣伝になるでしょ。いい試合をすればいいだけなんです。結局、一番大事なところがうまくいかなかったということでしょう」と語っている。
  34. ^ マッチメイクを担当していたザ・グレート・カブキは「全日本プロレスでメインを張った天龍と、新日本プロレスの中堅どころだったジョージや国際プロレスでは営業担当で前座要員だった若松を、たとえ道場主同士とはいえ同列には出来ないし、仮にジョージや若松をメインに持って来たとしてもさ、それで客が集まる訳ないじゃない」と、当時の状況を辛辣に語っている。
  35. ^ 同じ天龍派のレボリューション所属だった北尾光司も、1991年4月1日に神戸ワールド記念ホールで行われた対テンタとのシングルマッチ(北尾事件が発生した試合)に関し、この試合をマッチメイクしたカブキへ相当な不満をぶちまけていたという。一説では反天龍派が北尾を煽動したという説もある。またこういった事情に関して、当時のプロレスマスコミは一切報じなかった。
  36. ^ ナガサキは「SWSはとにかくマッチメイクで一番揉めたよ。いつもレボリューションが良い所を持って行くんだから、まあ当然だったんだけど」と語っていた。また鶴見五郎、アポロ菅原なども天龍派(レボリューション)へ偏ったマッチメイクに関して不満があった、と後にコメントしている。
  37. ^ 天龍によると、試合編成だけでなく田中社長に相談して了承を得られた事案も、反天龍派の選手が後から横槍を入れ、天龍が知らない間に変更されたことが何度もあったと発言している。またドン荒川が「天龍を第2試合にして、ジョージ(高野)をメインにしろよ」と申し出たこともあるという。
  38. ^ なぜ反天龍派の選手達が第1試合を敬遠したのか、真相は不明である。カブキは近年のインタビューで当時のSWSや選手について「SWSは自己中心的な選手達ばっかりでどうしょうもなかった。活躍したのは源ちゃん(天龍源一郎)やレボリューション(天龍派)の選手で、あとは若手選手だけ。他の選手は全然駄目だったよ」と嘆き気味に語っている。
  39. ^ またカブキは、この頃の反天龍派による確執やマッチマイクなどに対する横槍、余計な口出しや批判による度重なるストレスのため、この時期は頭部に吹き出物が出来てしまい、刺身などの生物が食べられなくなったという。
  40. ^ 天龍によると「俺が覚えているのは、熊本でジョージ高野とのシングルマッチの試合前に、ドン荒川が俺に『今日の試合はどうすんの?真剣勝負でやるの?』と直接言って来たから、何言ってるのお前?って思ったよ。石川敬士選手なんかは『そんなの構いませんよ、やっちゃいましょうよ!』って熱くなってたけど(笑)。でも俺が嫌だったのは、そんな試合をお客に見せて何になるの?って思ったんだよね」と話している。また「そんな試合を見せた所で、5秒で終わったらどちらにしろ客は怒るよ。またSWSは文句を言われるんだから。それなのに荒川は『どうすんの?セメントやるの?』だからね。アイツ(ドン荒川)がチョロチョロし出して、おかしくなり始めたから」とも語っている。
  41. ^ 谷津嘉章はニコニコチャンネルでのインタビューによると「俺は部屋別制度という既存のシステムが出来上がった後からSWSに移籍したんですよ。その前に(SWSへ)来ていたら、こんなことにならなかったと思うけど」と話している。また「(メガネスーパーの)田中八郎社長は、プロレスのことに関して全くの素人だったんですよ。プロレスはガチだと思っていたから。最初からプロレスの仕組みを社長にちゃんと説明すれば良かった。それをなぜ若松(若松市政)さん、ナガサキ(ケンドー・ナガサキ桜田一男)さんが事前に教えなかったんだと思うんですよ」と批判的に語っていた。ただし、旗揚げ直前に田中社長はナガサキからプロレスの仕組みをある程度説明されていたという話もあり、全くプロレスの仕組みを知らなかった訳ではなかったが、仕組みを完全には理解しておらず、これが後のトラブルの要因のひとつになっている。
  42. ^ 旗揚げ当初の説明では、天龍派率いる『レボリューション』所属選手の専用道場になる予定だった。SWS崩壊後にこの物件は売却されている。
  43. ^ 2000年に発売された「週刊プロレス 1000号記念増刊号」で、田中八郎元社長の特別インタビュー(聞き手は鈴木健)によると「うち(SWS)の選手はこちらで道場を用意したんですが、誰も練習に来なかったんですよ。それで私が出席簿を道場に設置して、選手が練習に来ているか毎日チェックする様にしたんです。それでも選手達は来なかった」という。ただし、その中でも例外な選手がいた様で「ジョージ高野選手だけは毎日、道場へ来て熱心に練習をしていた。あれは凄かったですね」と、その姿を賞賛するコメントをしている。
  44. ^ 2010年に田中八郎社長が死去した際には、元SWSのジョージ高野が葬儀に参列している。
  45. ^ 元新日本所属だった反天龍派である選手の中には、天龍源一郎というレスラーおよび人物像を全く知らなかったため、最初から天龍をSWSのエースへ抜擢したことに不満を持ち、納得していなかった。
  46. ^ 当時WWFの交渉窓口は、元全日本プロレスで選手兼渉外担当だった佐藤昭雄がフロント入りをしており、反天龍派はWWFスタッフの佐藤と天龍、マッチメイカーのザ・グレートカブキとの関係も快く思っておらず、選手の中には「佐藤と天龍、カブキら3人で提携料を中抜きしているんだろう」という憶測の声も上がり、不信感を持った。佐藤と天龍・カブキとは全日本プロレス時代、先輩後輩の間柄でもある。
  47. ^ SWSは旗揚げしてから早期で経営不振となってしまい、さらに団体への予算が掛かり過ぎていたこともあり、田中社長はメガネスーパー本体からそのことを指摘されて問題となった。その理由の一つに新社長となった天龍が、SWSという団体のステータスを上げる目的で予算をふんだんに使っており、特にWWFとの提携料や中間マージン・選手のファイトマネーに破格の予算を費やしていた。このことも団体運営を切迫させた要因の一つともいわれる。
  48. ^ 2019年に出版されたケンドー・ナガサキ著の自伝によると、91年に阿修羅・原がSWSへの現役復帰をきっかけに「反天龍」への機運が高まった、と記している。また原の復帰・SWS入団に関しては、反天龍派の選手から過去に原が金銭トラブルを起こして全日本プロレスを解雇された不祥事があったことを指摘しており、復帰・入団には反対する声が上がっていた。
  49. ^ また田中社長からSWSの選手に毎回「勝利者賞」が支給されていたが、その賞金を天龍派である「レボリューション」の選手が毎回中抜きをしており、分け前を多く摂取していたのを知って反天龍派は強い不満を抱いたという。これについて当時、反天龍派の急先鋒だった谷津嘉章は「社長から出されていた勝利者賞を、毎回レボリューション派が分け前を多く徴収するんだから、そりゃあこっちは怒るよね」と暴露している。
  50. ^ レボリューションの天龍源一郎と、パライストラのジョージ高野の道場主タッグが組まれるなど、普段では見られない対戦も実現している。
  51. ^ 天龍・ジョージとの試合後、各部屋の選手達が控え室に集結して万歳三唱を行い、派閥解消をマスコミへアピールしていた。天龍は「部屋制度は一時、棚上げだね。とにかくSWSを良くして、みんなの持っている物を前面に出そうってことでまとまったよ」と、笑顔でコメントしている。しかしマスコミへの派閥解消、各部屋の選手を集めて行った万歳三唱のアピールは形だけに過ぎず、天龍派・反天龍派との確執や不信感は益々深まるだけであった。
  52. ^ その他の例として、谷津嘉章がWWFのキング・ハクと結託して「ナチュラル・パワーズ」なるタッグを結成し、タッグ戦線を賑わしたほか、「打倒天龍」を目標とした「挑龍軍」が北原辰巳(レボリューション)、仲野信市(檄)、大矢健一(パライストラ)と道場を横断する形で結成されたり、佐野直喜はUWFスタイルに共鳴し、積極的に藤原組の興行にも参戦している。
  53. ^ この記者会見前日の夜に、谷津は天龍と会って2人で話し合いの場を持っており、今後のSWS運営について「メガネスーパーからの支援を受けながら各部屋の独立と、年に数回部屋別対抗戦の興行を行う形でSWSを継続する」という提案を持ち掛けた(谷津は別の日にジョージ高野へも同じ提案を話している)。谷津、ドン荒川と並ぶ反天龍派の急先鋒であるジョージ高野は、この谷津の提案を受けて「もう天龍とは今後、一緒にやって行けないので大歓迎だ」と提案に賛成した。しかし天龍はこれまで社長も務め、さらに団体のエースとしてSWSを引っ張って来たというプライドがあり、この条件に同意すると「SWSの分裂・解散」を意味するため、この提案には納得出来なかった。結局この話し合いは平行線に終わり、天龍は谷津に対して「このことはまた改めて話し合おう」「今日話した内容は一切、口外しないでほしい」と約束をして別れた。しかし谷津は「このまま天龍と話し合った所で提案には納得しないし、進展も無いだろう」と解釈した。後日、天龍との約束を破り独断で単独記者会見を開いて天龍への批判や、SWSの内部事情・部屋との派閥争いなどを暴露するという前代未聞の会見となった。
  54. ^ 「ナチュラル・パワーズ」や「挑龍軍」も解散に追い込まれた。ただし、完全に両派で分断した訳ではなく、ケンドー・ナガサキは『檄』所属であったが「中立派」であり、天龍派・反天龍派・外国人との対戦カードのいずれにも連ねている。
  55. ^ この1週間前にザ・グレートカブキが単独で記者会見を行い、マッチメイカーを自ら降板すると共に「レボリューション」所属から退くことを発表した。今後はフリーとして活動する意向を語っており、これでSWSはマッチメイカーが不在となる。そのために天龍派・反天龍派から1人ずつマッチメイカーを選出した。
  56. ^ マッチメーカーを降りた後について、カブキは「案の定、何もできない。自分たちの都合しか考えていない変なカードばっかりだから、お客さんもどんどん減っていった。さすがに、まずいと思った田中社長から何度か「またマッチメーカーをお願いしますよ」って言われたけど「もうやりません」ってはっきり断りました」と発言している。
  57. ^ 5月22日の後楽園ホール大会で、反天龍派は試合後に選手達がリング上で輪となって手を繋ぎながら万歳し「一致団結」をアピールする。この天龍へ対するクーデターによりSWSの崩壊が決定的となった。この異常事態に天龍は、試合後の控え室でマスコミを前に「俺達がSWSで2年間、頑張ってやって来たのは一体何だったんだよ…。誰がこんな団体にしたんだ、たった2年間でSWSを潰さないから!俺は負けないよ」と語り、天龍は不覚にも涙を流して悔しがった。
  58. ^ この時点で既にSWSは崩壊・分裂が決定的となり、反天龍派の選手達もトーンダウンしていたこともあって谷津・仲野に同調して追尾する選手は誰1人もいなかった。
  59. ^ リング上には試合中にもかかわらず、激しいブーイングと物が投げ込まれる中で行われるという非常に危険で異常な事態となり、仲野はその光景に涙を流しながら試合をするという屈辱を味わった。
  60. ^ 田中社長は週刊プロレス1000号記念特別インタビューで、週刊文春による高野兄弟の主張について「週刊誌に書かれた事実は全く無いんですよ。自分達が内輪揉めを起こしてSWSを崩壊させたんじゃない。すぐ人のせいにするんだから」と、高野兄弟の主張に対しては強く反論している。
  61. ^ 高野兄弟に代わってNOWのエースに抜擢された若手の維新力浩司であったが、彼にネームバリューが思うほど無かったことも団体が低迷する要因でもある。
  62. ^ 特に天龍の義弟である武井正智が社長へ就任した時期に前後して、団体経営における見解の 相違が表面化し、1994年に石川敬士が離脱し「東京プロレス」を設立し、さらに1996年には冬木弘道ら「冬木軍」が離脱している。
  63. ^ 元全日本プロレスの練習生として入団。試合実績は無く、高野俊二・サムソン冬木らと共にSWSへ移籍している。
  64. ^ 藤原喜明と船木誠勝・鈴木みのるらとの路線対立により、船木・鈴木ら大半の選手が藤原組を離脱し、その後パンクラスを設立した。藤原組の残留者はこの時点で藤原と石川雄規のみであった。
  65. ^ ナガサキは小佐野景浩著書の「SWSの幻想と実像」でのインタビューによると当時、SWSに集まった選手や崩壊後について「正直、要らぬ選手も結構いたよな(笑)。こんなにレスラーが来た所で一体、どうするんだよって」「SWSの元選手達は今、団体が無くなって苦労もそうだけど結構、後悔していると思うよ。だって待遇面や給料については充分恵まれていたし、選手もかなり潤っていたんだもん。揉めずに頑張って団体を継続させた方が良かったね」「あれだけプロレスにお金を注ぎ込んでくれる会社はもう現れないでしょ、きっと…」と感極まって話している。しかし本来、若松とナガサキはSWS旗揚げに向けて選手獲得へ水面下で動いていた中心的存在でもあったため、SWSの内部事情・各選手の不満や疑問などを聞き入れてしっかりと解決し、充分に把握した上で団体を取り仕切る重要な立場であったが、若松は妻の病気により常に側にいて看病することになり(後に妻は死去)、とても団体のことではない状況だった。またナガサキに至っては試合が無いオフの間、自宅があるアメリカへ戻ってしまっていたために、団体内部で起きていたトラブルや現状をほとんど把握出来ていなかった。こういったこともSWSの早期崩壊に繋がった一因ともいえる。
  66. ^ 冬木弘道は週刊プロレスの単独インタビューで「SWSは、一部の駄目な選手が団体を潰しちゃったんだけどね」と語っている。またザ・グレートカブキもプロレス書籍のGスピリッツVOL・14号のインタビューにて、SWSの内部事情を振り返り「仕事が出来ない奴ばっかりだし、内部もバラバラだったから、絶対コケるなって思ったよ(苦笑)」と失敗を予想していた。
  67. ^ 他にもゴルフ事業なども存在していた。その他のスポーツ事業や、現在でも存続するのかは不明である。
  68. ^ ケンドー・ナガサキは著書にてドン荒川のことを「とにかく調子のいい奴だったから」と語っている。また田中社長に対して「今度、私が知り合いの長嶋茂雄さんを紹介しましょうか」と、自慢げに話していたという。しかし、荒川はきちんと約束を守り、長嶋をSWSの試合大会に招待している。
  69. ^ また剛を受け入れるか否かについて、既にSWSは団体内部に天龍派・反天龍派と派閥が存在していたが、皮肉にも双方の反対意見が合意したためSWSとしては唯一、まとまりのあった判断ともいえる。この頃から剛竜馬は選手・金銭面・団体とのトラブル(国際プロレスから新日本への移籍をめぐるトラブルなど)を幾度も起こしていたため、信用を得られない自業自得の面もあった。
  70. ^ ゲスト解説には、週刊ゴング編集長(当時)の小佐野景浩門馬忠雄佐藤昭雄などが担当していた。
  71. ^ 実況:伊津野亮 解説:菊池孝・牧元一・林家しん平。なお伊津野はSWS中継が終了した後、そのままJWP女子プロレス中継の実況を担当している。
  72. ^ 実質的に復帰した形となる。
  73. ^ 放送日時は月曜日の深夜帯に放送されていた。
  74. ^ ラジオ向けの趣向で音声のみであった。
  75. ^ 天龍は反天龍派の急先鋒だった谷津とは和解した後、お互いにLINEをする仲となり交流が続いている。しかし、確執のあったジョージ高野・若松市政・ドン荒川(2017年に死去)とは和解出来ていない。
  76. ^ SWS末期の1992年4月以降は「レボリューション」を離れて、専属フリーの立場となった。
  77. ^ 荒川のSWS入団はやや遅れ、90年10月16日となる。
  78. ^ a b 入団時からしばらくは専属フリーとしての参戦だったが、1992年4月より「パライストラ」所属となった。
  79. ^ a b c SWS活動停止後はWARへ参加。
  80. ^ SWS活動停止後はNOWへ参加。
  81. ^ 1990年12月に初来日し、1991年3月の再来日を機に留学を希望したため、「道場・檄」の預かりとして8月まで滞在した。SWS活動停止後、1992年7月に覆面レスラー「マスクド・インフェルノ」としてW★INGプロモーションに参戦している。

出典

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  1. ^ a b c d e 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.8 移籍・引き抜き興行戦争 pp22 - 27「SWSに走った天龍は、全日本から選手を引き抜いたのか?」(文:小佐野景浩
  2. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp085
  3. ^ a b c スポーツアルバムN0.52 天龍源一郎引退記念特別号 上巻 pp64 - 66 「悲憤のSと一筋の光明」
  4. ^ a b 『SWSプロレス激闘史』pp023 - 047「SWS激闘クロニクル1990-1992」
  5. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp006 - 011「恐龍怒闘 天龍源一郎が苦境に抗い続けたSWSの2年間」
  6. ^ a b c d e 『SWSプロレス激闘史』pp110 - 111「SWS激闘史年表」
  7. ^ 『永久保存版 天龍源一郎引退記念特別号 下巻 スポーツアルバムN0.54』(2015年、ベースボール・マガジン社 ISBN 978-4-583-62309-2) pp18 - 19
  8. ^ 『俺たちのプロレス VOL.10』「証言5 天龍源一郎 円満退社はなぜバッシングを浴びたのか? 全日本復帰の舞台裏とは?」(2018年、双葉社)P48
  9. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp084
  10. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp086 - 91「検証!SWS×週プロ」
  11. ^ 竹内宏介『プロレス虚泡団体の真実』pp50 - 52
  12. ^ a b c d e f g スポーツアルバムN0.52『天龍源一郎引退記念特別号 上巻』pp68 - 70「Sと週プロ。 一体なにがあったのか」(文:安西伸一) ※pp70には『週刊プロレススペシャル3』のSWS関連インタビューの一部再括がある
  13. ^ 元プロレス雑誌編集長が告白「馬場から裏金をもらっていた」 Sports Watch 2010年06月18日
  14. ^ 『金権編集長 ザンゲ録』(宝島社)
  15. ^ a b c d e f 『週刊プロレス SUPECIAL』日本プロレス事件史 Vol.12 移籍・引き抜き興行戦争 pp52 - 57 「SWSの理想と現実」(文:小佐野景浩)
  16. ^ 『SWSの幻想と実像』p117
  17. ^ a b 桜田一男『ケンドー・ナガサキ自伝』p224
  18. ^ 『SWSプロレス激闘史』p61
  19. ^ 『SWSプロレス激闘史』p102
  20. ^ 『G SPIRITS VOL.46』pp34 - 43(高杉正彦による証言より) ISBN 9784777820047
  21. ^ 天龍がカブキがカーンが小鹿が谷津が、馬場さんありがとう…23回忌追善興行にレジェンド大集結 - スポーツ報知 2021年2月13日
  22. ^ 天龍さんが語る“谷津嘉章” 右足切断で義足になった谷津が30年来のわだかまりを経て話しかけてきた! - AERA dot. 2022年3月27日
  23. ^ 『SWSプロレス激闘史』 pp056 - 062「SWS日本人選手名鑑1990-1992」
  24. ^ 『SWSプロレス激闘史』p101
  25. ^ 『SWSプロレス激闘史』pp63 - 71「SWSマットを席巻した外国人レスラー列伝」

関連項目

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