山东京传 - 维基百科,自由的百科全书
山东京传 | |
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國家 | 日本 |
時代 | 江戶時代 |
假名 | さんとう きょうでん |
羅馬拼音 | Santō Kyōden |
字 | 伯慶 |
號 | 山東庵、山東窟、山東軒、珊洞散士、鼯鼠翁、臍下逸人、洛橋陳人、甘谷、菊亭、菊軒、菊花亭、醒斎、醒々斎、醒世老人 |
法號 | 弁誉智海京伝信士 |
出生 | 宝暦11年8月15日(1761年9月13日) 日本江戸深川 |
逝世 | 文化13年9月7日(1816年10月27日) 日本江户 |
墓葬 | 东京都墨田区兩國回向院 |
山东京传(日语:山東 京傳/さんとう きょうでん Santō Kyōden */?,1761年9月13日—1816年10月27日),字伯慶,是日本江戶時代后期的一名浮世绘画家、戏作家。
经历
[编辑]山东京传原名岩瀬醒,出生于江户一户中产阶级町人之家,父亲岩瀬传左衛門为当铺店主。[1]山东京传早年曾学习三味线,后又向北尾重政学习浮世绘,并在安永7年(1778年)以北尾政演为艺名开始创作浮世绘,培养了敏锐的观察力。[2]后来,山东京传在京桥经营百货商店“京传店”,也时常流连于吉原游廓,并迎娶吉原的下等妓女为妻。[3]
1785年,山东京传发表了处女作洒落本《儿子的房间》(日语:息子部屋),此后又通过《古契三娼》等洒落本作品在江户文坛确立了地位,并开始以创作通俗小说为职业。[4]此后,他又通过《時代世話二挺鼓》、《孔子縞于時藍染》等黄表纸作品讽喻政治,批判幕府。他的作品也因为契合民众心理,在江户城引起了大轰动。[5][6][2][7][8][9]
1790年,江户幕府加强对社会风俗的管控,禁止洒落本、黄表纸等文学作品的出版,山东京传表面上倡导劝善惩恶的价值观,但他仍然出版了《仕懸文庫》、《锦之里》等三部洒落本而因此被幕府逮捕并被判戴手铐五十天,而出版其作品的出版商蔦屋重三郎也被没收了一半的财产。出狱后,因住家为洪水冲毁,得依靠曲亭馬琴接济。此后,山东京传不再创作洒落本与黄表纸,转而开始创作滑稽本及研究古事。
1816年去世,死于脚气病。
著作
[编辑]- 『山東京伝集』(佐藤深雪校訂『叢書江戸文庫』18 国書刊行会、1987年)
- 「遊びのデザイン 山東京伝『小紋雅話』」 岩崎美術社、1984年
- 「洒落のデザイン 山東京伝画『手拭合』」 岩崎美術社、1986年
- 『山東京伝』(山本陽史編『シリーズ江戸戯作』) おうふう、1987年
浮世绘作品
[编辑]- 「水辺にほととぎすを聞く人びと」 横間倍判 錦絵 天明
- 「当世艶風拾形」 中判 錦絵揃物 天明
- 「当世美人色竸」 大判 錦絵揃物 天明2年頃
- 「吉原傾城 美人合自筆鏡」 大判錦絵2枚続7組揃 天明3年 「うた川・なゝ里」など。※天明4年に画帖に製本。
- 「青楼名君自筆集 瀧川 花扇」 錦絵 大判2枚続 天明3年
- 「助六図」 絹本着色 浮世絵太田記念美術館蔵
- 「桜下美人図」 紙本着色 出光美術館蔵
- 「助六図」 絹本着色 镰仓国宝馆蔵
- 「料亭四季庵図」 絹本着色 ニューオータニ美術館蔵
- 「遊女と禿図」 絹本着色 弗瑞爾藝廊蔵
- 「江戸風俗図巻」 紙本着色
- 「Two Beauties on a Veranda (页面存档备份,存于互联网档案馆)」 絹本着色 芝加哥艺术博物馆蔵
- 『江戸生艶気樺焼』 黄表紙 自画作 天明5年
- 『吾妻曲(あずまぶり)狂歌文庫』 絵入狂歌本 宿屋飯盛撰 天明6年
- 『古今狂歌袋』 絵入狂歌本 宿屋飯盛撰 天明7年
参考文献
[编辑]- ^ すみだゆかりの人々 1985,第6頁.
- ^ 2.0 2.1 山東京傳、山東京傳全集編集委員会『黄表紙』第1巻、ぺりかん社〈山東京傳全集〉、1992年、NCID BN08213441。
- ^ すみだゆかりの人々 1985,第7頁.
- ^ 北岛正元. 江户时代 D104. 日本: 岩波新书. : 238–240. ISBN 978-7-5133-3124-1.
- ^ 北尾政演(作・画)『娘敵討古郷錦』上巻、中巻、下巻、江戸 : 鶴屋喜右衛門(刊行)、出版年不明。
- ^ 細窪孝; 山崎春奈. 京伝と役者絵--黄表紙「娘敵討古郷錦」と初世中村仲蔵について. 東京家政学院大学紀要 (東京家政学院大学). 1996年7月, (26): 73–82. ISSN 0286-6277.
- ^ 山東京傳、水野稔『米饅頭始 ; 仕懸文庫 ; 昔話稲妻表紙』岩波書店〈新日本古典文学大系〉第85巻、1990年、4002400859、ncid/BN04381149。
- ^ フジミ書房 2009.
- ^ 国立国会図書館所蔵黄表紙集. CD復刻シリーズ. フジミ書房. 2009.