藤原泰衡 - 维基百科,自由的百科全书

時代平安時代末期 - 鎌倉時代初期
生誕久寿2年(1155年
死没文治5年9月3日1189年
別名太郎[1]、伊達小次郎[2]、伊達次郎(二郎)、泰平、泉冠者?
墓所中尊寺金色堂日语中尊寺金色堂
官位出羽陸奧押領使日语押領使
氏族奥州藤原氏
父母父:藤原秀衡
母:藤原基成日语藤原基成之女・德尼公
義父:藤原国衡日语藤原国衡(實為異母兄)[3]
兄弟国衡、泰衡忠衡日语藤原忠衡藤原高衡日语藤原高衡通衡日语藤原通衡頼衡日语藤原頼衡、妹[4]
不詳
時衡日语藤原時衡秀安、泰高
日語寫法
日語原文藤原 泰衡
假名ふじわら の やすひら
平文式罗马字Fujiwara no Yasuhira

藤原泰衡(1155年—1189年10月14日),日本平安時代末期、鎌倉時代初期武士,他是奧州藤原氏第四代、亦是末代當主

生平

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他是藤原秀衡次子,正室所生的他被喚為「母太郎」、「當腹之嫡男」,相對於異母兄國衡日语藤原国衡的「父太郎」、「他腹之嫡男」之稱。文治3年(1187年),父親死後繼承家督,屈服於源賴朝的威勢,無視父親保護源義經的遺願,派兵襲擊義經於衣川(衣川之戰日语衣川の戦い),迫其自殺,也殺害了支持義經的三位弟弟,但因為勢力威脅到朝廷,仍被源賴朝討伐(奧州合戰日语奥州合戦)。他向源賴朝求和卻遭拒,逃往夷狄島後被郎黨河田次郎日语河田次郎殺害,獻首於賴朝,他的死標誌著奧州藤原氏滅亡。

身後

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葬有奧州藤原氏前三代當主的岩手縣中尊寺金色堂中有一個黑漆的首桶,據說裡頭正是泰衡的首級。

登場作品

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小說
影視劇

脚注

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  1. ^ 玉葉文治4年(1188年)1月9日条には秀衡の次男であるにも関わらず、「太郎」と記述されている。
  2. ^ 柳之御所遺跡で出土した人々給絹日記には、「小次郎」と記されている。日記の内容は武家の正装であり、平泉館で大事な儀式があったとき着なければならない赤根染を基調とした絹の狩が誰に支給されたかが記されている。泰衡の欄には「赤根染白」、「カサネタリ」、「カリキヌハカマ」と記されている。泰衡の異母兄・国衡の別名である信寿太郎殿の名も記されている。
  3. ^ 父秀衡は死去する直前、異母兄弟である国衡と泰衡の融和を図る目的で、自分の正室・藤原基成の娘(泰衡の実母)を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として給仕し、三人一味の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。これは兄弟間なら対立・抗争がありうるが、親子は原則としてそれはありえないので、対立する国衡と泰衡を義理の父子関係にし、後家として強い立場を持つ事になる藤原基成の娘を娶らせる事で国衡の立場を強化し、兄弟間の衝突を回避したものと考えられる。それほど兄弟間の関係は険悪で秀衡が苦慮していたことが窺える。
  4. ^ 『平泉志』には『又玉海の記に、秀衡の娘を頼朝に娶はすべく互に約諾を成せりとあれど、秀衡系圖には娘なし、何等の誤りにや、否や、後の批判を待つ』とあり、訳せば、源頼朝と秀衡の娘を娶わせる約束が成されたとあるが系図に娘が記されていない、となる。