オリバー・ビアホフ
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2011年のビアホフ | ||||||
名前 | ||||||
愛称 | ジャーマンタワー | |||||
ラテン文字 | Oliver Bierhoff | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | ドイツ | |||||
生年月日 | 1968年5月1日(56歳) | |||||
出身地 | 東ドイツ, カールスルーエ | |||||
身長 | 191cm | |||||
体重 | 90kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW (CF) | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1974-1985 | SWエッセン | |||||
1985-1986 | KFCユルディンゲン | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1986-1988 | ユルディンゲン | 31 | (4) | |||
1988-1989 | ハンブルガー | 34 | (6) | |||
1989-1990 | ボルシアMG | 8 | (0) | |||
1990-1991 | アウストリア・ザルツブルク(ローン[1]) | 33 | (23) | |||
1991-1995 | アスコリ | 117 | (48) | |||
1995-1998 | ウディネーゼ | 86 | (57) | |||
1998-2001 | ミラン | 91 | (36) | |||
2001-2002 | モナコ | 18 | (4) | |||
2002-2003 | キエーヴォ | 26 | (7) | |||
通算 | 444 | (185) | ||||
代表歴 | ||||||
1988-1990 | U-21 西ドイツ | 10 | (7) | |||
1996-2002 | ドイツ | 70 | (37) | |||
監督歴 | ||||||
2004-2018 | ドイツ (チームマネージャー) | |||||
2018-2022 | ドイツ (チームディレクター) | |||||
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オリバー・ビアホフ(Oliver Bierhoff, 1968年5月1日 - )は、ドイツ・カールスルーエ出身の元同国代表サッカー選手、サッカー指導者。ポジションはFW。
クラブ経歴
[編集]1986年、バイエル・ユルディンゲンでキャリアをスタート。その後ハンブルガー、ボルシアMGを経て、1990-91シーズンは、アウストリア・ザルツブルクに貸し出された。ここで23ゴールと、ゴールを量産し、ヨーロッパのビッククラブからも注目を集めた[1]。
1991年夏、インテルがボルシアMGから獲得した[1]。しかし、技術的にまだ未熟であると判断され、一度もプレーしないまま、同じセリエAのアスコリへ貸し出された[1]。しかし、1991-92シーズン、怪我でしばらく離脱するなどもあり、セリエAに適応が出来ず、チームもセリエBへの降格が決定した[1]。1992-93シーズン、インテルはパンチェフを獲得したことから、外国人枠の関係もあり、アスコリに売却された[1]。この年、20ゴールをあげる活躍を見せてセリエB得点王を獲得した[1]。この活躍により、1993年の夏、インテル複帰への交渉が行われたが、アスコリの要求額が高く、インテルは交渉から手を引いた[1]。1993-94シーズンも17ゴールを決める活躍で、ユヴェントスなども興味を示していたが、残留することとなった[1]。1994-95シーズン、9ゴールしかあげることが出来ず、アスコリもセリエC降格が決定した[1]。
1995-96シーズンにウディネーゼへ移籍、このシーズン、アルベルト・ザッケローニ監督の指揮下、セリエAで17得点を決め、ドイツ代表に召集されるまでになった[1]。1996-97シーズンも、アモローゾ、パオロ・ポッジとのトリデンテで活躍、自身は13得点を決めて、チームはリーグ5位に入り、チーム史上初となるUEFAカップ出場権を獲得した、1997-98シーズン、リーグ戦で27得点をあげ、ロナウドを抑えてセリエA得点王のタイトルを獲得[1]、チームはリーグ3位に入った[1][2]。
1998-99シーズン、ウデイネーゼからザッケローニ監督、トーマス・ヘルヴェグと共にACミランへ移籍、フォワードの一角として活躍、19ゴールを決めて(このうち15点がヘディングによるものであった[1]。)、このシーズンのセリエA優勝に大きく貢献した[1]。1999-00シーズンにもリーグ戦で11ゴールを決めた[1]。その後、シェフチェンコの加入もあり出場機会が減少し、2001年にリーグ・アンのASモナコへ移籍。翌年ACキエーヴォ・ヴェローナへ移籍、2003年べガルタ仙台との親善試合を兼ねた引退試合が仙台で行われ、現役を引退した。
代表経歴
[編集]1996年2月21日のポルトガル戦でデビューを飾り、1996年の欧州選手権決勝のチェコ戦、1点ビハインドの後半24分に途中出場しその4分後に頭で同点ゴールを決め、延長戦に決勝点となるゴールデンゴールを決め、欧州選手権優勝の立役者となった。
1998年のワールドカップ予選、1997年8月20日の北アイルランド戦ではハットトリックを決めた[3]。1998年のワールドカップでは、イラン戦、ユーゴスラビア戦、メキシコ戦でゴールを決め、2002年のワールドカップでもグループリーグのサウジ戦でゴールを決めている。
引退後
[編集]2004年7月からドイツ代表のチームマネージャーに就任[4]。2007年10月26日からはドイツサッカー連盟 (DFB) の幹部に就任し[5]、2015年からはDFBアカデミーのプロジェクトマネージャーを務めた[6]。2018年1月1日からはDFBの構造改革に伴い、代表のチームマネージャー兼アカデミー担当チーフを務めるほか、代表とサッカーデベロップ部門を統括する4人の取締役の一人となっている[7]。
2018年からはドイツ代表のチームディレクターに昇格したが、2022年ワールドカップカタール大会で代表チームが1次リーグ敗退に終わったことを受けて退任した[8]。
エピソード
[編集]個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | 期間通算 | |||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||||
ドイツ | リーグ戦 | リーグ杯 | 期間通算 | ||||||||
1986-87 | バイエル・ユルティンゲン | ブンデスリーガ | 19 | 3 | |||||||
1987-88 | 12 | 1 | |||||||||
1988-89 | ハンブルガーSV | 24 | 6 | ||||||||
1989-90 | 10 | 0 | |||||||||
1989-90 | ボルシアMG | 8 | 0 | ||||||||
オーストリア | リーグ戦 | リーグ杯 | 期間通算 | ||||||||
1990-91 | アウストリア・ザルツブルク | ブンデスリーガ | 33 | 23 | |||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | 期間通算 | ||||||||
1991-92 | アスコリ | セリエA | 17 | 2 | |||||||
1992-93 | セリエB | 35 | 20 | ||||||||
1993-94 | 32 | 17 | |||||||||
1994-95 | 33 | 9 | |||||||||
1995-96 | ウディネーゼ | セリエA | 33 | 17 | |||||||
1996-97 | 23 | 13 | |||||||||
1997-98 | 32 | 27 | |||||||||
1998-99 | ACミラン | 34 | 19 | ||||||||
1999-00 | 30 | 11 | |||||||||
2000-01 | 27 | 6 | |||||||||
2001-02 | 0 | 0 | |||||||||
フランス | リーグ戦 | F・リーグ杯 | 期間通算 | ||||||||
2001-02 | モナコ | リーグ・アン | 18 | 4 | |||||||
イタリア | リーグ戦 | イタリア杯 | 期間通算 | ||||||||
2002-03 | キエーボ | セリエA | 26 | 7 | |||||||
通算 | ドイツ | ブンデスリーガ | 73 | 10 | |||||||
オーストリア | ブンデスリーガ | 33 | 23 | ||||||||
イタリア | セリエA・B | 320 | 149 | ||||||||
フランス | リーグ・アン | 18 | 4 | ||||||||
総通算 | 444 | 186 |
タイトル
[編集]クラブ
[編集]- ACミラン
代表
[編集]- ドイツ代表
個人
[編集]- セリエA得点王 : 1回 (1997-98)
- セリエB得点王 : 1回 (1992-93)
- ドイツ年間最優秀ゴール : 1回 (1996)
- 年間最優秀ドイツ人選手 : 1回 (1998)
- ACミラン殿堂入り
代表歴
[編集]脚注
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p “Bierhoff-Inter, un amore mai sbocciato: dal prestito all'Ascoli allo Scudetto con il Milan”. GOAL (2022年5月1日). 2023年8月12日閲覧。
- ^ “Paolo Poggi: il Venezia nell'anima, il record soffiato da Leão e l'introvabile figurina”. goal (2023年2月16日). 2023年7月12日閲覧。
- ^ 週刊サッカーマガジン 1997年9月17日 no.623 p.114-117 ベースボールマガジン社
- ^ “ドイツ代表 監督 スタッフ紹介”. euronavi.net. 2019年3月25日閲覧。
- ^ “Oliver Bierhoff :: Präsidium :: Verbandsstruktur”. Der DFB :: DFB - Deutscher Fußball-Bund e.V.. 2019年3月25日閲覧。
- ^ “Bierhoff Projektleiter der geplanten DFB-Akademie”. augsburger-allgemeine.de (2015年3月22日). 2019年3月25日閲覧。
- ^ “Deutscher Fußball-Bund: Oliver Bierhoff wird Superminister”. WELT (2017年10月20日). 2019年3月25日閲覧。
- ^ “失意に沈むDFB、ディレクターのビアホフ氏が退任…契約を2年前倒しで打ち切り”. 超ワールドサッカー! (2022年12月6日). 2023年9月11日閲覧。