サン=ジェルマン=アン=レー城

サン=ジェルマン=アン=レー城
地図
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サント=シャペル

サン=ジェルマン=アン=レー城 (サン=ジェルマン=アン=レーじょう、Château de Saint-Germain-en-Laye , フランス語発音: [ʃɑto də sɛ̃ ʒɛʁmɛ̃ ɑ̃ lɛ]) は、フランスパリの西方19 km 、イヴリーヌサン=ジェルマン=アン=レーコミューンにある王宮である。 今日、城には国立考古学博物館( Musée d'Archéologie Nationale )が入っている。

歴史

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12世紀~13世紀

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最初のは、「大砦 Grand Châtelet 」と名付けられ、ルイ6世により1122年頃に現在地に建設され、1230年代にルイ9世 により拡張された。

城にあるサン・ルイ教会はルイ9世時代のもので、フランスゴシック建築レイヨナン式に分類される。 1238年の憲章でルイ9世は定期的に礼拝に通うようになった。 これは、王宮内に教会が建設された初めての例である。 このサント・シャペル教会は、聖荊冠聖十字架を納めるための場所であった。 その設計と建築は、のちに聖ルイ王が1240年から1248年にかけてパリパレ・ド・ジュスティス内に建築した有名なサント・シャペルを予感させる。

両教会の建物は、ルイお気に入りの建築家ピエール・ド・モントルイユによる。 彼は、サン=ジェルマン=アン=レー城で成功した構造上の手法を、パリのサント・シャペルでも採用した。 身廊は1つで、その端はシュヴェで終わる。 壁のほとんどの部分は、最上部まで厚みのないガラス窓で占められる。 窓と窓の間は、外側を大きな控え壁に支えられている。 ヴォールトの尖頭アーチはベイの間の円柱に乗り、円柱の土台は低い位置で独立したアーケードの背後に位置する。 このように、内部にはなんらの支柱もなしで、開放的な大空間を生み出している。 多数の窓も、金属製の部品を壁の構造に組み込み、石の安定性を支えるというピエール・アルメ( pierre armée )の技術に支えられている。 西の壁は、ゴシックレイヨナン式バラ窓で飾られている。

1238年にボードゥアン2世が、ルイ王に聖遺物の荊冠を譲り渡したのはこの教会であり、パリのサント・シャペルが1248年4月に奉献されるまで、聖遺物はこの教会に保管されていた。

城は1346年、エドワード黒太子に火を放たれ、ゴシック建築の教会だけが中世の時代から現代まで残されている。 1360年代、古い基盤の上に、シャルル5世は「旧城 Château Vieux 」を再建した。

16世紀~18世紀

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中庭の角にある階段塔

現在の城に残る最も古い部分は1539年にフランソワ1世によって再建された箇所であり[1]、その後、幾度かに渡って拡張されている。 1547年7月10日、政争から生じた敵対関係は、この城を舞台についに流血の事態を迎えた。 前評判に反して、第7代ジャルナック男爵ギー・シャボーが、シャテニュレーの領主フランソワ・ド・ヴィヴォンヌに勝利、ジャルナックの戦いを引き起こした。

アンリ2世は城の隣に、フィルベール・ド・ロームの設計による新しい城「新城 le Château Neuf 」を建設した。 エティエンヌ・デュ・ペラック監督のもと、新城は斜面の上に建設された[2]。 その斜面は、傾斜した大きなテラス3つを形作り、そこからより小さなサブのテラスへも抜けられた。 テラスの先は、線対称形になった階段と傾斜路で、その対称軸はセーヌ川の河岸までつながっていた。 このデザインは、バニャイアにあるヴィラ・ランテから多くのヒントを得ている[3][4]

Vue du Châteauneuf de St-Germain-en-Laye 、イスラエル・シルヴェストル作のエッチング。ル・ノートルによる1660年の改装以前のテラスが記録されている。

サン=ジェルマン=アン=レー城の庭は、フランスに導入されたイタリア式庭園の1つであり、フランス式庭園の基礎ともなった。 元来、城は防御のためにわざわざ難しい土地を選んで建設される[5]。 城との因果関係をもとに配置されるパルテッレとは異なり、新しい庭では、パルテッレ、砂利道、噴水と鉢、様式をふまえた植栽が正確な線対称のデザインに整えられ、その対称軸は、建物のファサードの対称軸にきちんと揃えられている。 このような様式は、1650年以降アンドレ・ル・ノートル作の庭でその絶頂期を迎えた[6]。 クロード・モレの『 Théâtre des plans et jardinage 』によれば[7]、パルテッレは1595年、アンリ4世のためにモレが設計した。 モレは、アネで経験を積み、王室庭師の権門の創始者となった。 モレがサン=ジェルマン=アン=レー城に設計したパルテッレの1つを、オリヴィエ・ド・セール画『 Le théâtre d'agriculture et mesnage des champs 』(1600年)に見ることができる。 またシャトー・ヌフと一連のすばらしいテラスの全体像を、1614年トマソ・フランチーニ作の彫版で見ることができる[8]

シルヴェストル作、新城の最上階テラスの眺め。詩的許容として、放置されたありさまが描かれる。
城はRER A線サン=ジェルマン=アン=レー駅に近く、サン=ジェルマン=アン=レーの街の中心にある。

ルイ14世は1638年、サン=ジェルマン=アン=レー城で生まれた。 デュ・ペラック時代の擁壁の1つが1660年に崩れており、ルイ14世は1662年、庭の修復を行った。 成長したルイ14世は、1666年ここに宮廷を開いたが、彼は旧城の方を好んだ。 新城は打ち捨てられ、1660年代に破壊された。 1663年から1682年の間に宮廷は完全にヴェルサイユに移り、彼が不運なニコラ・フーケから引き継いだルイ・ル・ヴォージュール・アルドゥアン=マンサールアンドレ・ル・ノートルのチームは、古い大建築物をよりふさわしい景観にしようと努めた。

ル・ノートルは1669年から1673年にかけて庭を改修し、2.4 kilometre の長さに及ぶ石造りのテラスからは、セーヌ川の谷や、遠くにパリの街を眺めることができた。

ルイ14世は、名誉革命のため1688年にイングランド王ジェームズ2世が英国から亡命してくると、この城を彼に提供した。 ジェームズ王はこの城に13年の間起居し、この間に娘ルイーザ・マリア・テレーザ・ステュアートをもうけている。 ジェームズ王はサン=ジェルマン教会の近くに葬られた。 妻のメアリー・オブ・モデナは城にとどまり、1718年にそこで没した。 息子のジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートは1716年に城を出て、最終的にはローマに居を構えた。 多くのジャコバイト(追放されたスチュアート朝の支持者)は、フランス革命が勃発した1793年に城を去った。

ジャコバイトの多くはかつてのジェームズ2世の宮廷のメンバーであり、城の管理者であるノアイエ公爵は、恩給受給者である彼らの死によって城内の居室が空くと、その未亡人や子息たちに部屋を引き継がせた[9]。 サン=ジェルマンに置かれたジャコバイトの亡命団は、1750年代はまだ優勢だったが、周囲の敵意をかき立ててもいた。 1766年に保護者だったノアイエ公爵が亡くなると、英国の優位性はまたたくまに失われ、フランス人に居室が与えられた。 スチュアート朝の最後の住人はテレーザ・オコンネルで、彼女は1778年に死去した[9]。 フランス革命時の1793年、政府により城が接収されて居室を放逐された時点で、英国スチュアート朝最後の直系は、大多数がフランス系の名を名乗っていた[9]

19世紀~21世紀

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19世紀には、ナポレオン・ボナパルト騎兵隊将校の訓練所を城に置いた。 1862年にはナポレオン3世がウジェーヌ・ミレーによる修復を開始した。 1867年には国立考古学博物館が置かれ、フランスの考古学資料を展示している[要出典]。 1879年にミレーが死去すると、オーギュスト・ラフォイエが修復の責務を引き継ぎ、1889年まで継続した。 彼と、その後継者オノレ・ダウメが目指したのは、フランソワ1世のフランス・ルネサンス様式を再現することであった[10]

1919年9月10日、城を舞台に、第一次世界大戦連合国オーストリア第一共和国の間にサン=ジェルマン条約が締結された[11]

1940年から1944年にかけてのドイツ占領の間、城はドイツ軍にフランス本部として使用された。

2005年、博物館は「国立考古学博物館 Musée d'Archéologie Nationale 」と改名された[12]。 その収蔵物には、旧石器時代のものからメロヴィング朝時代のものまで含まれる[1]

脚注

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  1. ^ a b 『ブルーガイドわがまま歩き フランス』 2015, p. 144.
  2. ^ Karling 1974 p 10
  3. ^ F. Hamilton Hazlehurst, Jacques Boyceau, pp20, 77–79, 100, noted by Karling.
  4. ^ 『エティエンヌ・デュ・ペラックにはイタリアに長く過ごした経験があり、このタイプの庭に関する彼の興味の表れとしてよく知られるのが、1573年に彫られたヴィラ・デステの光景である』Karling 1974, p 11
  5. ^ サン=ジェルマン=アン=レー城のパルテッレも、城のファサードと直接的な関係はもたない。
  6. ^ Sten Karling, in "The importance of André Mollet and his family for the development of the French formal garden," in The French Formal Garden, Elizabeth MacDougall and F. Hamilton Hazlehurst, editors, (Dumbarton Oaks, 1974), in making this point, notes Château d'Ancy-le-Franc , Château d'Anet, Château de Maune , Château de Charleval , Château de Verneuil and Saint-Germain-en-Laye.
  7. ^ The book was not published until 1652, but it had long been in preparation (Karling 1974).
  8. ^ Francini's engraving is illustrated by Karling, fig. 8.
  9. ^ a b c Edward T. Corp: A Court in Exile: The Stuarts in France, 1689-1718 (2004)
  10. ^ Boulet, François (2006). Leçon d'histoire de France Saint-Germain-en-Laye: Des antiquités nationales à une ville internationale. DISLAB. p. 189. ISBN 978-2-9520091-8-8. https://books.google.co.jp/books?id=hJIxxLSXnS0C&pg=PA189&redir_esc=y&hl=ja 2013年6月12日閲覧。 
  11. ^ "Austrian treaty signed in amity," The New York Times, Sept. 11, 1919, p. 12.
  12. ^ Ministerial decree no. 2005-698 of June 22, 2005

参考文献

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外部リンク

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座標: 北緯48度53分53秒 東経2度05分47秒 / 北緯48.89806度 東経2.09639度 / 48.89806; 2.09639