ジャン・デュヴュザー
ジャン・ピエール・デュヴュザー Jean Pierre Duvieusart | |
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生年月日 | 1900年4月10日 |
出生地 | ベルギー フラーヌ=レ=ゴスリー |
没年月日 | 1977年10月11日(77歳没) |
死没地 | ベルギー クイイェ |
出身校 | ルーヴェン大学 |
所属政党 | キリスト教社会党 |
配偶者 | ブランシュ・ディジョン |
子女 | 4人 |
在任期間 | 1950年6月8日 - 1950年8月16日 |
国王 | レオポルド3世 |
在任期間 | 1964年3月20日 - 1965年9月23日 |
ジャン・ピエール・デュヴュザー(英語:Jean Pierre Duvieusart、1900年4月10日 - 1977年10月11日)は、ベルギーの政治家(キリスト教民主主義)。第48代ベルギー首相、欧州議会議長を務めた。
政治経歴
[編集]地方時代・閣僚
[編集]1900年4月10日にフラーヌ=レ=ゴスリーに誕生する。デュヴュザーは中道民主・人道主義の前身であるキリスト教社会党に入ることで政治家として歩みだすことになった。1927年から1947年にかけて出身地フラーヌの市長を務める。1933年から1936年の間は州議会議員を務め、1944年には代議院議員、1949年から1965年にかけては元老院議員を務めた。
1947年3月20日から1950年6月8日まで、ポール=アンリ・スパーク、ガストン・アイスケンス両政権で経済相を務めた。
首相
[編集]1950年6月8日にアイスケンスの後任として首相に就任する。ところがレオポルド3世の王位復帰問題とボードゥアン1世の王太子任命を受けて首相としての任期はわずか2か月余りにとどまり、同年8月16日に退陣することとなった。
その後、1952年1月15日から1954年4月23日にかけてジャン・ヴァン・ウット政権で経済相を務めた。在任期間中の1952年から1953年の間、デュヴュザーは欧州石炭鉄鋼共同体の閣僚理事会において議長を務めていた。
欧州議会議長
[編集]1958年から1965年にかけてデュヴュザーは欧州議会の議員を務めていた。1964年3月20日から1965年9月23日の間には欧州議会議長を務める。議長の任期満了後、デュヴュザーはキリスト教社会党を離党する。
1968年にデュヴュザーはフランス語系ブリュッセル民主戦線及びワロン連合の代表となるが、1972年に政界を引退する。
参考文献等
[編集]- Déclaration gouvernementale lue par le Premier ministre Jean Duvieusart et par Gaston Eyskens à la Chambre le 28 juin 1950 et au Sénat le 28 juin 1950
- Jean Duvieusart (Premier Ministre lors des faits), La Question royale. Crise et denouement, juin, juillet, aout 1950', Bxl, 1976 (qui cite les rapports remis par la Surete de l'Etat, notamment p. 100 et pp.187-213).
- Serge Derouette: L‘Affaire royale, 1988
- Olivier Maingain: 40 ans du FDF: Discours, 2004
外部リンク
[編集]- 経歴紹介
- ベルギー首相府(フランス語、オランダ語)
- Rulers.org
- Wallonie-en-ligne
公職 | ||
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先代 ガストン・アイスキンス (en) | ベルギー王国首相 第48代:1950年6月8日 - 1950年8月16日 | 次代 ジョゼフ・フォリアン (en) |
外交職 | ||
先代 ガエターノ・マルティーノ | 欧州議会議長 1964年3月20日 - 1965年9月23日 | 次代 ヴィクトル・レーマンス |