フランツ・フォン・ツァハ
フランツ・フォン・ツァハ Franz von Zach | |
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生誕 | 1754年6月4日 ハンガリー,ペシュト |
死没 | 1832年9月2日 フランス,パリ |
研究分野 | 天文学 |
主な業績 | 準惑星 ケレスの再発見 |
プロジェクト:人物伝 |
フランツ・クサーヴァー・フォン・ツァハ男爵[1](Franz Xaver Freiherr von Zach, 1754年6月4日 - 1832年9月2日)は、オーストリア(現在はハンガリー)生まれのドイツの天文学者。行方不明になっていた小惑星ケレスを再発見した。
人物
[編集]ペシュト(現在のハンガリーのブダペスト)、一説にブラチスラヴァ(現在はスロヴァキア)に生まれる(いずれも当時はハプスブルク帝国時代のハンガリー王国領)。1783年、ロンドンでザクセン公使の家庭教師となる(1786年まで)。
1786年、ザクセン=ゴータ=アルテンブルク公エルンスト2世に招かれ、公領のゴータにゼーベルク天文台を建設する。1791年、台長に就任する(1806年まで)。
1787年、ティティウス・ボーデの法則が予言する、火星と木星の間にあるという惑星(後に「小惑星」と呼ばれる)の捜索を始める。
1800年(一説に1799年)、リリエンタールの執政官で天文学者のヨハン・シュレーター (Johann Hieronymus Schröter) と共に、共同捜索チーム未知惑星捜索連盟(通称リリエンタール探偵団 、Lilienthal Detectives)を組織した。団員は、異説もあるが、ツァハ、シュレーター(団長)、カール・ハーディング、ヴィルヘルム・オルバース、フェルディナント・フォン・エンデ (Ferdinand Adolf von Ende)、ヨハン・ギルデマイスター (Johann Gildemeister) の6人(24人いたとする資料もある)。彼らは、天空の警察(de:Himmelspolizey)と呼ばれた国際的プロジェクトを組織し、黄道を24分割してヨーロッパ各地の天文台で分担して捜索を始めた。
1801年1月1日、ジュゼッペ・ピアッツィが、最初の小惑星ケレスを発見した。しかし、2月11日の観測を最後に、ケレスは行方不明になった。
1801年12月31日、ツァハは、カール・フリードリヒ・ガウスによる軌道計算を元に、ケレスを再発見した。この経緯から、ケレスの発見者をピアッツィ、ガウス、ツァハの3人とする資料もある。ただし、国際天文学連合 (IAU) 小惑星センター (MPC) は、ピアッツィの単独発見としている。
なお、ツァハ自身は新小惑星を発見することはなかったが、1802年から1807年にかけて、リリエンタール探偵団のオルバースがパラスとベスタを、ハーディングがジュノーを発見している。
1806年から、ある伯爵未亡人の南ヨーロッパ旅行に随伴する。
天文学者として以外に、地理書 Tables of the Sun の出版(1792年)や、3つの学術雑誌の編集(1798年 - 1826年)でも知られる。
小惑星 (999) ツァッヒアと[2]、月のクレーター・ツァハは、ツァハにちなんで名づけられた。ちなみに、小惑星 (999) から (1001) の名前は、ツァッヒア、ピアッツィア[3]、ガウシアで[4]、ケレスの発見者と再発見者3人の名前が並んでいる。
小惑星 (64) アンジェリーナは、彼がマルセイユ近郊に建てた観測施設にちなんで名づけられた[5]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ 原語での名前の3語目「Freiherr」(フライヘル)は「男爵」にあたり、ファーストネームやミドルネームではない。また、「フォン」は厳密には姓の一部。
- ^ “(999) Zachia = 1915 VC = 1923NW = 1939 HA = 1940 RH = 1957 SH = 1972 CG”. MPC. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “(1000) Piazzia = 1923NZ = 1951 OB = 1967 ED”. MPC. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “(1001) Gaussia = 1907 XC = 1911 MD = 1923OA”. MPC. 2021年8月28日閲覧。
- ^ “(64) Angelina = 1930 QY”. MPC. 2021年8月28日閲覧。
参考文献
[編集]- 渡部潤一・布施哲治『太陽系の果てを探る』 東京大学出版会、2004年、24、31頁。 ISBN 4-13-063702-9
外部リンク
[編集]- 小惑星の故郷をたずねて
- Franz Xaver, baron von Zach - Encyclopædia Britannica