ミドル・テンプル

ミドル・テンプル

ミドル・テンプル (The Honourable Society of the Middle Temple) は、ロンドン中心部シティテンプル地区にある法曹院である。ロンドンに4つある法曹院の1つで、他にインナー・テンプルグレイ法曹院リンカーン法曹院がある。法曹院は法廷弁護士の養成・認定に関する独占的な権限を持ち、イングランドウェールズのすべての法廷弁護士および裁判官は4つの法曹院のいずれかに所属することが法律によって義務づけられている[1]。インナーテンプルとは英国国教会テンプル教会を共同で維持運営している[2]

ミドル・テンプルはシティの域内にあるが「リバティ」(Liberty) と呼ばれる自治体としての地位をもっており、シティの管轄下にはない。ロンドン地下鉄の最寄り駅はテンプル駅

概要

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テンプル教会
イングランド国教会に属する教会で、教会をインナー・テンプルと共有している。近年『ダ・ヴィンチ・コード』の小説や映画の舞台にもなった。
ミドル・テンプル・ホール外観
ミドル・テンプル・ホール内部
ミドル・テンプル・ガーデン
紋章(Coat of arms)
セント・ジョージ・クロスが施されている。

ミドル・テンプルは法廷弁護士の育成・認定を行う非営利の協会組織である。他の3つの法曹院同様に、5世紀以上におよぶ歴史を持ち、その敷地内に図書館、宿泊施設、ダイニング、チャペル、庭園などを持つ。他の法曹院と同様にミドル・テンプルがいつ頃成立したのか、定かではない。ミドル・テンプルが記録に登場するのは1501年[3]であるが、数々の補足的な資料から13世紀前半頃までその歴史を遡れると考えられている[4]。記録に残っている1501年を基準にすると、ミドル・テンプルは3番目に古い法曹院ということになる。ただし4つの法曹院は伝統的に同格であり、どの法曹院が最古かという論争はしないことになっているので、公式に最古の法曹院が決まっているわけではない。

ミドル・テンプルがあるのは、かつてテンプル騎士団が開拓し「テンプル」と今でも呼ばれている場所である。12世紀、テンプル騎士団はこの場所に宿泊施設や食堂、国王が滞在するための建物、貯蔵庫、厩舎、そしてテンプル教会(800年以上経て現存するイングランド国教会の教会)などを建てた。記録によるとエルサレム総主教Patriarch Heraclius1185年2月10日にイングランド国王ヘンリー2世とともにテンプルの開所式を執り行ったとある。王はたびたびテンプルに滞在した。例えばイングランド王ジョン1215年、テンプル滞在中に男爵などの貴族から国王の権限の制限と彼らの権利の拡大を突きつけられている。これが同年、マグナ・カルタにつながり、その調印の場にはテンプル騎士団の代表も立ち会っている。このようなテンプル騎士団とイングランド王室との蜜月関係に守られ、テンプルはある種の特区のような形に発展した。この”特区”は13世紀ロンドンの金融取引の一翼を担うようになる。そして金融取引の増大とともにテンプルには法曹関係者が住み着くようになった。しかし、テンプル騎士団は1290年までに聖地エルサレムを完全に失い、1312年ヴィエンヌ公会議で解散を命じられるまで急速に凋落した。これに伴い、"特区"としてのテンプルの隆盛にもかげりが見え始める。

テンプルが金融取引の地から現在まで続く法曹養成の地に変貌した大きな要因は1339年ヨークに移転していた中央法廷がロンドンのウエストミンスターに戻ってきたことにある。1340年代には原始的な法曹関係者組織が整備されていた記録があり、そこで法学の講義が行われていた。ところが1381年に起きたワット・タイラーの乱により多くの建物が破壊されしまう。さらに、原因が定かではないが、テンプルにあった法曹院が1388年までにインナー・テンプルとミドル・テンプルの2つに分かれたと考えられている。この分裂以降、テンプルの西半分がミドル・テンプルの敷地となる。

14世紀15世紀のミドル・テンプルについては実態が不明である。イングランド王リチャード2世関連の記録にミドル・テンプルを思わせる記述があるが、具体的な活動内容までは記載されていない。またリンカーン法曹院1422年の記録には、ミドル・テンプル関係者と開催したワインパーティの支払いに関する記述がある。もっともこの期間にミドル・テンプルは法曹の教育機関としての機能を強化したことは確かで、そのことは前述の1501年のミドル・テンプルの最古公式記録に既によく整備された法曹協会の存在が記載されていることからも分かる。16世紀もミドル・テンプルの規模拡大は継続し、1574年の記録によると138の弁護士事務所と約200名の会員を擁していた。17世紀になるとミドル・テンプルは法曹教育のほかに社交場としての機能を併せ持つようになる。ミドル・テンプル・ホールは劇場として使用されることも多くなり、1602年にはミドル・テンプル・ホールにてシェークスピア喜劇『十二夜』初演されている。また1633年にはJames Shirley仮面劇 "The Triumph of Peace"も上演されている。

1608年には、ジェームズ1世との合意によって、ミドル・テンプルとインナー・テンプルの2つの法曹院は、イングランド国教会のテンプル教会とその礼拝を維持するという条件で、テンプルの土地と教会の占有権が特許状により授与された[2]。特許状は今日でも有効であり、これらの条件は現在も守られている[5]

18世紀19世紀になるとイギリス帝国の発展・変化に伴い、イングランド以外のバックグランドを持つ者がミドル・テンプルの会員に増えていく。最初はアイルランド人などで、次にアメリカカリブ海周辺出身者、さらにインドなどのオリエントアジア出身者である。このようなミドル・テンプル会員における多様化・国際化は"新しい伝統”として21世紀の現在まで引き継がれている。

ミドル・テンプルの建物で最も古いのは前述のミドル・テンプル・ホールである。1574年完成で後期ゴシック様式のこの建物は水平はね出し梁を二重に持つ天井(Hammerbeam roof)と美しいステンドグラスを持ち、イギリス指定建造物一級として法律によって保護されている。ホールにある29フィート (約9メートル)もあるテーブルは、女王エリザベス1世から下賜されたもので、ウィンザーの森から切り出された一本のオークの木から作られている。女王エリザベス1世はフランシス・ドレークなどの寵臣を引き連れ、このミドル・テンプル・ホールでたびたび食事をしたと伝えられている。またこのホールはディケンズの小説"Barnaby Rudge"にも登場する。1940年ナチス・ドイツによるロンドン空襲(ザ・ブリッツ)によりミドル・テンプル・ホールは大きな被害を受けたものの、16世紀の姿とほぼ同じように修復されている。

ミドル・テンプルは敷地を一般開放しており、シェークスピアの史劇『ヘンリー六世 第1部』の赤薔薇と白薔薇のエピソードの舞台となった庭園や歴史的建造物を見学することが出来る。

日本との関係

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日本において1885年(明治18年)に英吉利法律学校(現・中央大学)を創立した18人の法学者のうち、岡村輝彦穂積陳重増島六一郎土方寧の4人が、ミドル・テンプルで英法を学んで法廷弁護士(バリスター)の法曹資格を得ており、中央大学ゆかりの地となっている。穂積陳重はミドル・テンプルを『中央法院』と訳したが、英吉利法律学校は1889年(明治22年)に『東京法学院』と改称されたのち、1905年(明治38年)には『中央大学』と改称されており、穂積が訳した『中央法院』との所縁を感じることができる[6][7]。こうしたことから、中央大学の「中」の字は「ミドル・テンプル」の「ミドル」に由来すると言われている[8]
また、2023年に中央大学が法学部と大学院法学研究科の新しい拠点として開設した茗荷谷キャンパスの建物において、春日通り沿いのレンガ積みの外観はミドル・テンプルと中央大学の歴史を継承してデザインされ、校舎B1階の食堂や4階の図書室も、ミドル・テンプルのクラシックなイメージを現代的にアレンジした造りになっている[9]

著名な関係者

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英連邦大英帝国の影響下にあった国々にはコモン・ローという中世イングランドのプランタジネット朝に生まれた法体系を採用している国が多く、歴史的経緯からそれらの国々とイギリスの法曹の人的交流も盛んである。そのためミドル・テンプルの関係者には英国のみならず、それらの国からの留学生も多い。なお、下記の分類はあくまで主な活躍分野に基づいている。

政治家

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ブラックストン

裁判官

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その他

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ギャラリー

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脚注・参考文献・参考サイト

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関連項目

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外部リンク

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座標: 北緯51度30分48秒 西経0度6分42秒 / 北緯51.51333度 西経0.11167度 / 51.51333; -0.11167