ヴィッテルスバッハ家
ヴィッテルスバッハ家 ドイツ語: Haus Wittelsbach | |
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国 | 神聖ローマ帝国 カルマル同盟 ・デンマーク ・ノルウェー ・スウェーデン バイエルン王国 ギリシャ王国 |
領地 | バイエルン |
創設 | 1180年 |
家祖 | オットー1世 (シェイエルン伯) |
最後の当主 | ルートヴィヒ3世 (バイエルン王) |
現当主 | フランツ・フォン・バイエルン |
民族 | ドイツ人 |
ヴィッテルスバッハ家(ドイツ語: Haus Wittelsbach)は、ドイツのバイエルン地方を発祥とするヨーロッパの有力な君主、諸侯の家系。バイエルンの君主(バイエルン公(選帝侯)、バイエルン王)の家系として有名だが、その他にもプファルツ選帝侯(ライン宮中伯)、ブランデンブルク辺境伯(選帝侯)、スウェーデン王の家系として続いていた。また神聖ローマ皇帝、ギリシャ王も一族から出ている。プファルツ系その他の全ての家系を含めて「バイエルン家」(フランス語: Maison de Bavièreなど)とも呼ばれる。
長い歴史を有する家系であるが、三十年戦争におけるプファルツ選帝侯フリードリヒ5世とバイエルン公マクシミリアン1世に顕著なように同族内でしばしば内紛を繰り返し、ハプスブルク家やホーエンツォレルン家に後れを取ることになった。
ドイツ革命で玉座を失ったが、1923年にバイエルン州が設立したヴィッテルスバッハ家補償基金により、一族は年間1400万ユーロを獲得している[1]。
ヴィッテルスバッハ家の君主
[編集]ドイツ・中欧
[編集]バイエルン公―選帝侯―王
[編集]1180年にオットー1世がバイエルン公となって以来、1918年まで約740年にわたって君臨してきた。バイエルン公は1623年に選帝侯となり、1806年にはバイエルン王となっている。
ライン宮中伯―プファルツ選帝侯
[編集]1214年にバイエルン公ルートヴィヒ1世がライン宮中伯となって以来、1777年まで約560年続いた。1356年の金印勅書で選帝侯の1人に正式に定められ、以後はプファルツ選帝侯と呼ばれる。1329年以降はバイエルン公の家系とプファルツ選帝侯の家系に分かれたが、プファルツ選帝侯カール4世フィリップ・テオドールがバイエルン選帝侯を継承することで再統合され、同時にプファルツの選帝侯位は消滅した。
歴代君主はライン宮中伯を参照。
ブランデンブルク辺境伯―選帝侯
[編集]1320年から1373年まで、ルートヴィヒ4世をはじめとする4人のバイエルン公がブランデンブルク辺境伯を兼ねた。1356年にブランデンブルク辺境伯は選帝侯となっている。その後、神聖ローマ皇帝カール4世の息子ヴェンツェル(後の皇帝)がブランデンブルク選帝侯位を獲得した。
歴代君主はブランデンブルク統治者の一覧を参照。
神聖ローマ皇帝・ローマ王
[編集]2人の神聖ローマ皇帝、1人のローマ王が出ているが、いずれも世襲化は果たせなかった。
- ルートヴィヒ4世(1314年 - 1347年) - バイエルン公、ライン宮中伯
- ループレヒト(ドイツ王、1352年 - 1410年) - プファルツ選帝侯
- カール7世(1742年 - 1745年) - バイエルン選帝侯
ハンガリー王
[編集]下バイエルン公オットー3世がアールパード朝断絶後に短期間ハンガリー王に即位している。
ボヘミア王
[編集]プファルツ選帝侯フリードリヒ5世、バイエルン選帝侯カール・アルブレヒト(神聖ローマ皇帝カール7世)の2人が、いずれもハプスブルク家を追い落とす形でボヘミア王即位を宣言したが、ともに短期間で反撃を受けて王位を奪回された。
北欧
[編集]カルマル同盟
[編集]プファルツ選帝侯家の分家プファルツ=ノイマルクト家の出身でデンマーク王家の血を引くクリストファ・ア・バイエルン(クリストファ3世)が1440年、1441年、1442年にカルマル同盟下のデンマーク、スウェーデン、ノルウェーの王に相次いで選ばれている。クリストファは1448年に死去し、子供がなかったため1代で断絶した。
スウェーデン王(プファルツ朝)
[編集]プファルツ系の傍系の出身でヴァーサ家のスウェーデン王女を母とするプファルツ=クレーブルク公カール・グスタフ(カール10世)が、従妹クリスティーナ女王とスウェーデン元老院の承認により、1654年にスウェーデン王位を継承した。以後、ウルリカ・エレオノーラ女王が1720年に退位するまでにスウェーデン王家として4代続いた。これをプファルツ朝と呼ぶ。
歴代君主はプファルツ王朝を参照。
その他
[編集]ネーデルラント
[編集]神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はマルガレーテ・フォン・ホラントとの結婚により、ネーデルラントの諸伯領(ホラント伯、エノー伯、ゼーラント伯など)の共同統治者となり、その子孫は14世紀から15世紀にかけてバイエルンと共にこれらの所領も治めたが、ジャクリーヌ・ド・エノーからブルゴーニュのフィリップ善良公へ譲られた。
ギリシャ王
[編集]1832年にギリシャ独立戦争の結果、オスマン帝国から独立を果たしたギリシャに、欧州列強はバイエルン王国の王子オットーを初代国王として送り込んだ。オットーはギリシャ王オソン1世 として即位したが、1862年に革命で退位した。以後はグリュックスブルク家がギリシャ王家として王制廃止まで続いた。
ジャコバイトの王
[編集]最後のバイエルン王であるルートヴィヒ3世の妃マリア・テレジアはジャコバイトの女王「メアリー3世」であった。そのため、2人の子であるループレヒト以降はジャコバイトの支持による名目上のイングランド王・スコットランドの王位も兼ねることになった。ループレヒトの孫である現当主フランツは、バイエルン王家の家長であると同時にジャコバイトの王「フランシス2世」でもある。
その他の主な人物
[編集]括弧内は生没年
- イザボー・ド・バヴィエール(1369年 - 1435年) - フランス王シャルル6世妃
- ザビーナ(1492年 - 1564年) - ヴュルテンベルク公ウルリヒ妃
- ルパート・オブ・ザ・ライン(1619年 - 1682年) - カンバーランド公
- ゾフィー・フォン・デア・プファルツ(1630年 - 1714年) - ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃
- エレオノーレ・マグダレーネ(1655年 - 1720年) - 神聖ローマ皇帝レオポルト1世皇后
- マリー・ゾフィー(マリア・ソフィア)(1666年 - 1699年) - ポルトガル王ペドロ2世妃
- マリー・アンナ(マリアナ)(1667年 - 1740年) - スペイン王カルロス2世妃
- ドロテア・ゾフィー(ドロテア・ソフィア)(1670年 - 1748年) - パルマ公子オドアルド2世妃、後にパルマ公フランチェスコ妃
- エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエール(1652年 - 1722年) - オルレアン公フィリップ1世妃
- マリー・アンヌ・ド・バヴィエール(1660年 - 1690年) - フランス王太子ルイ(グラン・ドーファン)妃
- ヨーゼフ・フェルディナント(1692年 - 1699年) - スペイン王位継承者、アストゥリアス公
- クレメンス・アウグスト(1700年 - 1761年) - ケルン大司教
- マリア・ヨーゼファ(1739年 - 1767年) - 神聖ローマ皇帝ヨーゼフ2世皇后
- アウグステ(1788年 - 1851年) - ロイヒテンベルク公ウジェーヌ・ド・ボアルネ妃
- カロリーネ・アウグステ(1792年 - 1873年) - ヴュルテンベルク王ヴィルヘルム1世妃、後にオーストリア皇帝フランツ1世皇后
- エリーザベト・ルドヴィカ(1801年 - 1873年) - プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世妃
- アマーリエ・アウグステ(1801年 - 1877年) - ザクセン王ヨハン妃
- ゾフィー(1805年 - 1872年) - オーストリア大公フランツ・カール妃
- ルイトポルト(1821年 - 1912年) - バイエルン摂政
- エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ(1837年 - 1898年) - オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世皇后
- マリー・ゾフィー(マリーア・ソフィア)(1841年 - 1925年) - 両シチリア王フランチェスコ2世妃
- エリザベート・ド・バヴィエール(1876年 - 1965年) - ベルギー国王アルベール1世妃
系図
[編集]祖家
[編集]ライヒャースボイアーン伯メギンハルト姉妹 | オットー1世 (2世) (c.1020-1072/8) | ハツィガ (ディーセン伯フリードリヒ2世娘) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エッケハルト1世 (?-1091) | リヒガルディス (ヴァイマール伯ウルリヒ1世娘) | ベルンハルト1世 (?-1104) | オットー2世(3世) (?-1120) | リヒガルディス (エッケハルト1世の寡婦) | アルノルト1世 (?-1123) ダッハウ伯 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ウダルリヒ1世 | オットー4世(5世) シェイエルン伯 ヴィッテルスバッハ伯 | ハイリカ (フリードリヒ3世・フォン・ペッテンドルフ=レンゲンフェルト=ホプフェノーエ娘) | エッケハルト2世 | オットー3世(4世) | エッケハルト3世 | ベルンハルト2世 (?-c.1139) フライジング司教座聖堂司祭 | ダッハウ伯家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
アーデルハイト | ヘートヴィヒ (?-1174) =アンデクス伯ベルトルト3世 | オットー1世 (6世) バイエルン宮中伯 | コンラート (?-1200) マインツ大司教 ザルツブルク大司教 | フリードリヒ2世 (?-c.1198) | ヴェルト伯マンゴルトの娘 | ウダルリヒ2世 (?-1179) | オットー3世 (7世) (?-1189) ヴィッテルスバッハ伯 | ベネディクタ (ヴェルト伯マンゴルト娘) | アグネス | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ルートヴィヒ1世 バイエルン公 ライン宮中伯 | ヴェルフ家 | フリードリヒ3世 (?-1176) | ウダルシャルク (?-1158/72) | オットー4世 (8世) (?-1209) ヴィッテルスバッハ伯 | ユーフェミア (?-c.1182) | ハイリカ (?-1191) | アグネス (?-1214以降) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
オットー2世 バイエルン公 ライン宮中伯 | アグネス (ライン宮中伯ハインリヒ5世娘) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
プファルツ家 | バイエルン公家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
- シェイエルン伯
- バイエルン宮中伯
- バイエルン公
ダッハウ伯家
[編集]アルノルト1世 (?-1123) ダッハウ=ファライ伯 | ベアトリクス | ||||||||||||||||||||||||||||||||
コンラート1世 | アルノルト2世 | オットー1世 (?-1140) ファライ伯 | |||||||||||||||||||||||||||||||
コンラート2世 (?-1159) メラーン公(1世) | コンラート1世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
コンラート3世 (?-1182) メラーン公(2世) | オットー2世 (?-1166) | コンラート2世 (?-1200) | |||||||||||||||||||||||||||||||
オットー3世 (?-1268) | |||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
[編集]出典
[編集]- ^ Kassian Stroh (2016年2月6日). “Erben der bayerischen Könige kassieren immer noch Millionen”. 南ドイツ新聞 2019年12月28日閲覧。
参考文献
[編集]- K.Bosl,Handbuch der Historischen Stätten - Bayern, Alfred Kröner, 1961., p.851