久山義英
久山 義英(くやま よしひで、生没年不明)は、幕末の武士(鳥取藩西館家臣[1])。明治・大正時代の鳥取県の資産家[2]、地主[3]。会見郡第六連合戸長[4]。別名(通称・俗称)省二、熊彦[1]。
経歴
[編集]鳥羽・伏見の戦いに参加した[1]。東山道先鋒軍に参加した[1]。下野戦争、上野戦争、奥州戦争に従軍した[1]。明治10年(1877年)西南戦争の際、陸軍省出仕、新撰旅団に属して戦地に赴いた[1]。帰郷後郡村吏員、実業に従事した[1]。
人物像
[編集]史料
[編集]所得額三千円以上の人々
[編集]国税営業税納入者名と対照して検討すべき資料として『郡勢一斑』から見積り所得額(所得税から各税率によって換算した額)三千円以上の人々の名を掲げておく[6]。大正4年(1915年)である[6]。久山義英(七千三十二円、米子角盤町)の名がみえる。
- 三万四千五百五十九円・尾高町・坂口平兵衛
- 二万千九百二十八円・博労町・名島嘉吉郎
- 一万二千五百十四円・道笑町・三好栄次郎
- 一万二千三百五十三円・県村・高田繁太郎
- 一万二千二円・法勝寺町・野坂茂三郎
- 一万百十三円・道笑町・益尾吉太郎
- 九千九百十九円・大高村・船越弥一郎
- 八千九百三十九円・富益村・永見億次郎
- 八千百九十九円・内町・後藤快五郎
- 七千五百八十二円・春日村・田後与一郎
- 七千三十二円・角盤町・久山義英
- 六千九百十七円・福米村・本生芳三郎
- 五千九百八十四円・東倉吉町・木村吉兵衛
- 五千四百五十六円・道笑町・益尾徳次郎
- 五千二百三十八円・糀町・田村源太郎
- 五千六円・住吉村(旗ヶ崎)・油木茂三郎
- 四千九百十八円・糀町・近藤なお
- 四千八百四十一円・四日市町・田口庸三
- 四千八百十三円・彦名村・高場保蔵
- 四千六百八十六円・西倉吉町・赤沢康平[7]
- 四千三百二十六円・道笑町・三好常太郎
- 四千二百八十九円・西町・渡辺慶太郎
- 四千二百二十九円・紺屋町・船越作一郎
- 四千二百円・法勝寺町・高板秀治
- 三千六百十七円・日野町・杵村善市
- 三千五百十四円・道笑町・大谷房太郎
- 三千三百二十五円・糀町・小坂市太郎
- 三千三百二十五円・成実村・遠武勇蔵[8]
- 三千二百円・紺屋町・砂田竹太郎
- 三千百七十六円・内町・中村藤吉
- 三千七円・車尾村・高田浅蔵
大正5年(1916年)の地主層
[編集]当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった[9]。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである[3]。1000円~2000円の部に久山義英の名前がみえる。
- 1000円~2000円の部[3]
- 2000円~3000円の部[3]
- 3000円~4000円の部[3]
- 4000円~5000円の部[3]
- 砂田竹太郎、坂江まつの
- 5000円~7000円の部[3]
- 小坂市太郎、森久太郎、野波令蔵、松浦常太郎
- 7000円~10000円の部[3]
- 大谷房太郎、平野万寿子、石賀善五郎
- 10000円~15000円の部[3]
- 15000円~20000円の部[3]
- 20000円~25000円の部[3]
- 30000円~35000円の部[3]
- 35000円~45000円の部[3]
- 70000円~100000円の部[3]
- 100000円以上の部[3]