野坂吉五郎

野坂 吉五郎
生年月日 1866年10月29日
出生地 鳥取県米子市法勝寺町
没年月日 不明
親族 兄・野坂茂三郎(衆議院議員)
甥・野坂寛治(米子市長)
養子・野坂康久(米子市会議員)
曾孫・野坂康夫(米子市長)

米子町会議員
在任期間 1913年 -
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野坂 吉五郎慶応2年9月21日1866年10月29日) - 没年不明)は日本の実業家政治家。元中国興業銀行常務取締役[1]。元中国貯蓄銀行取締役[1]。元米子町会議員、郡会議員。自治功労者。地主[2]

元衆議院議員野坂茂三郎の弟[3]。元米子市長野坂寛治の叔父。洋食のレストラン“十字屋”経営主で米子市会議員を務めた野坂康久の養父。米子市長野坂康夫曾孫にあたる。

経歴

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伯耆国米子法勝寺町(現鳥取県米子市法勝寺町)の商家に生まれた。屋号屋。野坂與八郎の五男[1]

明治14年(1881年家督を相続す[1]

大正2年(1913年)9月、町会議員(一級)に当選[4]

大正4年(1915年)9月30日 - 大正8年(1919年)9月29日、郡会議員[5]。大正4年(1915年)10月18日 - 大正8年(1919年)11月25日、郡参事会員[5]

大正6年(1917年)9月、町会議員(一級)に当選[5]

大正10年(1921年)5月、学務委員に就任[6]。大正10年(1921年)9月、町会議員に当選[7]

家族・親族

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野坂家

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鳥取県米子市法勝寺町
天保2年7月生[1] - 没
父・與八郎は姉つね弟康二を伴い野坂茂三郎の家籍に入る[1]
文久元年(1861年)2月生 - 大正12年(1923年)5月没
明治10年(1877年)4月生 - 没
  • 妻・あさ(角田益次郎長女[1]
明治3年(1870年)5月生[1] - 没
  • 男・享蔵[1]
明治42年(1909年)8月生[1] - 没
明治22年(1889年)6月生 - 没
  • 二女・章子(古島哲造に嫁す[1]

参考文献

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  • 『米子自治史』 1939年

関連

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史料

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大正5年(1916年)の地主層

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当時、商工業の有力者は同時に地主でもあった[12]。この年度における米子町の地価1000円以上の地主名を挙げると次の通りである[2]1000円~2000円の部に野坂吉五郎の名前がみえる。

  • 1000円~2000円の部[2]
八幡貞蔵、森尾甚太郎、大塚誠太郎、三好豊吉、渡辺[13]幸四郎、隠岐村初太郎、野坂吉五郎、末好和三、小倉延衛、住田半三郎、今井兼文、富長為太、勝田伝六、久山義英、植田兼蔵
  • 2000円~3000円の部[2]
神庭政七、亀尾定右衛門、亀尾伝三郎、藤谷喜三郎、天野芳太郎、井田虎次郎、有本松太郎、渡辺慶太郎、船越正蔵
  • 3000円~4000円の部[2]
黒田繁夫、天満徳太郎、田中庄次郎、篠原義一、村上常三、長田吉太郎、小西芳太郎、中村藤吉門脇孝一津田宗一郎、広戸藤次郎
  • 4000円~5000円の部[2]
砂田竹太郎、坂江まつの
  • 5000円~7000円の部[2]
小坂市太郎、森久太郎、野波令蔵、松浦常太郎
  • 7000円~10000円の部[2]
大谷房太郎、平野万寿子、石賀善五郎
  • 10000円~15000円の部[2]
田村源太郎、近藤なお、益尾徳次郎、杵村喜市、船越作一郎、稲田秀太郎
  • 15000円~20000円の部[2]
木村吉兵衛
  • 20000円~25000円の部[2]
三好栄次郎後藤快五郎
  • 30000円~35000円の部[2]
野坂茂三郎
  • 35000円~45000円の部[2]
益尾吉太郎
  • 70000円~100000円の部[2]
名島嘉吉郎
  • 100000円以上の部[2]
坂口平兵衛

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『人事興信録. 第8版』(昭和3年)ノ七
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 『米子商業史』166頁
  3. ^ 『米子商業史』170-171頁より
  4. ^ 『米子自治史』三七頁
  5. ^ a b c 『米子自治史』三八頁
  6. ^ 『米子自治史』四三頁
  7. ^ 『米子自治史』三八―三九頁
  8. ^ 『人事興信録. 5版』(大正7年)の二一
  9. ^ 『人事興信録. 6版』(大正10年)の二〇
  10. ^ 『島根鳥取名士列伝、上』七十八
  11. ^ 『人事興信録. 4版』(大正4年)も七
  12. ^ 『米子商業史』165頁
  13. ^ 綿辺か?