伊佐山三郎
いさやま さぶろう 伊佐山 三郎 | |||||
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生年月日 | 1901年1月5日 | ||||
没年月日 | 1967年9月21日(66歳没) | ||||
出生地 | 日本 茨城県 | ||||
職業 | 撮影技師 | ||||
ジャンル | サイレント映画、トーキー | ||||
活動期間 | 1922年 - 1965年 | ||||
活動内容 | 1922年 日活向島撮影所入社 1923年 日活京都撮影所異動 1924年 技師昇進 | ||||
主な作品 | |||||
『しゃぼん娘』[1] 『路傍の石』[1] 『陽のあたる坂道』[1] | |||||
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伊佐山 三郎(いさやま さぶろう、1901年1月5日 - 1967年9月21日[1])は、日本の撮影技師である。映画監督の田坂具隆とのコンビネーションで知られ[1]、「日本映画史の中でももっとも幸福なコンビ」と呼ばれる[2]。
人物・来歴
[編集]東京に移り、旧制・中央大学に入学するも、中途退学する[1]。1922年(大正11年)、日活向島撮影所に入社する[1]。撮影部で撮影助手を務めていた1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災で同撮影所は壊滅、この時先輩の撮影技師の高坂利光と共に撮影機材を持ち出し、震災の様子をフィルムに収めた。震災後は日活京都撮影所に異動した[1]。
1924年(大正13年)、撮影技師に昇進し、三枝源次郎監督、山本嘉一主演による現代劇のサイレント映画『民族の黎明』でデビュー、同作は同年7月4日に公開された[3]。1927年(昭和2年)、山本嘉次郎脚本の『鉄腕記者』で初めて田坂具隆と組み、同年には『しゃぼん娘』の撮影を務め、以降、田坂と行動をともにする[1]。1932年(昭和7年)、村田実、伊藤大輔、田坂具隆らの新映画社設立に参加、同年、伊藤が脚本を書き村田と田坂が共同監督した『昭和新撰組』の撮影を務める[3]。
1936年(昭和11年)、日活に復帰、現代劇の新撮影所である日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)に移籍、同年、田坂監督の『追憶の薔薇 前後篇』の撮影を務める[3]。同撮影所で『路傍の石』、『五人の斥候兵』等の作品に携わる[1][3]。
第二次世界大戦後は、戦争中に在籍した松竹京都撮影所で、1946年(昭和21年)、市川哲夫監督の『東京特急四列車』から始まった[3]。東横映画や大映京都撮影所、大映東京撮影所を経て、1953年(昭和28年)9月に製作再開宣言をした日活に再度復帰、1954年(昭和29年)、春原政久監督の『女人の舘』の撮影を務めている[3]。1958年(昭和33年)には、田坂監督の『陽のあたる坂道』を手がけ[1][3]、同作で第13回毎日映画コンクール最優秀撮影賞を受賞した[4]。
1967年(昭和42年)9月21日、死去した[1]。満66歳没。
大映時代の後輩で、後にテレビドラマや映画『戦国自衛隊』、『鬼平犯科帳 劇場版』等で撮影監督を務めた伊佐山巌(旧姓・滝田)は女婿[5]。
おもなフィルモグラフィ
[編集]- 『民族の黎明』 : 監督三枝源次郎、1924年 - 技師昇進作
- 『陸の人魚』 : 監督阿部ジャック、1926年
- 『鉄腕記者』 : 監督田坂具隆、1927年
- 『阿里山の侠児』 : 監督田坂具隆、応援監督溝口健二、1927年
- 『しゃぼん娘』 : 監督田坂具隆、1927年
- 『唐人お吉』 : 監督溝口健二、1930年 - 横田達之と共同
- 『昭和新撰組』 : 監督村田実・田坂具隆、脚本伊藤大輔、1932年
- 『月よりの使者』 : 監督田坂具隆、1934年
- 『明治一代女』 : 監督田坂具隆、1935年
- 『追憶の薔薇 前後篇』 : 監督田坂具隆、1936年
- 『真実一路』 : 監督田坂具隆、1937年
- 『五人の斥候兵』 : 監督田坂具隆、1938年
- 『路傍の石』 : 監督田坂具隆、1938年
- 『土と兵隊』 : 監督田坂具隆、1939年
- 『海軍』 : 監督田坂具隆、1943年
- 『東京特急四列車』 : 監督市川哲夫、1946年
- 『女人の舘』 : 監督春原政久、1954年
- 『乳母車』 : 監督田坂具隆、1956年
- 『陽のあたる坂道』 : 監督田坂具隆、1958年
- 『太陽の季節』 : 監督古川卓巳、1956年
- 『青い街の狼』 : 監督古川卓巳、1962年
- 『ギャングの肖像』 : 監督古川卓巳、1965年 - 遺作
註
[編集]外部リンク
[編集]- Saburo Isayama - IMDb
- 伊佐山三郎 - 日本映画データベース
- 伊佐山三郎 - KINENOTE
- 伊佐山三郎 - allcinema