伊達村候

 
伊達村候
伊達村候
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保10年5月11日1725年6月21日[1]
死没 寛政6年9月14日1794年10月7日[1]
改名 伊織(幼名)→村候→政徳
別名 村房、村隆、政教
戒名 大隆寺殿羽林中山紹興大居士
墓所 愛媛県宇和島市大隆寺
官位 従四位下遠江守大膳大夫左近衛権少将、贈正四位
幕府 江戸幕府
主君 徳川吉宗家重家治家斉
伊予宇和島藩
氏族 宇和島伊達氏
父母 父∶伊達村年
母∶伊達吉村三女富子
兄弟 村候、繁、島内徳風、幾、青木一貫、鉄ら
鍋島宗茂娘護姫[1]
田中氏、細川氏、木原氏、深沢氏
藤、栄、徳輝山口直清徳元、於貞、
村寿、少次郎、久、新、寛、九十郎、
藤三郎、初、富、錬、桜田壽忠桜田壽恕
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伊達 村候(だて むらとき)は、江戸時代中期の大名伊予国宇和島藩5代藩主。別名は村房、村隆、政教など多数。官位従四位下遠江守大膳大夫左近衛権少将農地制度を鬮持 (くじもち) 制から高持制にあらためた。[要出典]

生涯

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享保10年(1725年)、4代藩主・伊達村年の長男[1]として誕生した。母は伊達吉村の娘・富子[1]。幼名は伊織。享保8年(1723年)生まれとも言われる。享保20年(1735年)、父の死去により跡を継ぐ。

外祖父の仙台藩主・伊達吉村寛保3年(1743年)に隠居)から偏諱を受け村候と名乗る。寛延2年(1749年)、新たに仙台藩主となっていた伯父の伊達宗村が、本家を蔑ろにする行為が不快であるとして、村候を老中堀田正亮に訴える。村候は、宇和島藩伊達家が仙台藩伊達家の「末家」ではなく「別家」であるとして従属関係を否定し、自立性を強めようとしていた。具体的には、前述のように仙台藩主から偏諱を受けた「村候」の名を改めて「政徳」と名乗ったり、「殿様」ではなく仙台藩主と同様の「屋形様」を称したり、仙台藩主への正月の使者を省略したり、本家伊達家と絶交状態にあった岡山藩池田家と和解したりした。堀田正亮・堀川広益は両伊達家の調停にあたった。堀田は仙台藩伊達家を「家元」と宇和島藩伊達家を「家別レ」とするといった調停案を示した。これらの調停の努力もあり、表面的には同年中に両伊達家は和解に達した。しかし、その後も両伊達家のしこりは残った。

藩政においては、享保の大飢饉において大被害を受けた藩政を立て直すため、窮民の救済や倹約令の制定、家臣団25か条の制定や軍制改革、風俗の撤廃や文武と忠孝の奨励を行なうなど、多彩な藩政改革に乗り出した。宝暦4年(1754年)からは民政3か条を出して民政に尽力し、延享2年(1745年)からは専売制を実施する。宝暦7年(1757年)12月には紙の専売制を実施し、寛延元年(1748年)には藩校を創設するなどして、藩政改革に多大な成功を収めて財政も再建した。

しかし、天明の大飢饉を契機として再び財政が悪化し、藩政改革も停滞する。その煽りを食らって、晩年には百姓一揆と村方騒動が相次いだ。そのような中で寛政6年(1794年)9月14日(異説として10月20日)に70歳で死去し、跡を四男・村寿が継いだ。法号は大隆寺殿羽林中山紹興大居士。

教養人としても優れた人物で、「楽山文集」、「白痴篇」、「伊達村候公歌集」などの著書を残した。また、晩年には失敗したとはいえ、初期から中期まで藩政改革を成功させた手腕は「耳嚢」と「甲子夜話」で賞賛されている。

系譜

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伊達村候(右側)と正室・護姫の墓(金剛山大隆寺)

脚注

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  1. ^ a b c d e 宇神 2011, p. 110.

参考文献

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  • 近代史文庫宇和島研究会 編『家中由緒書 中』1980年。 
  • 宇神幸男『宇和島藩』現代書館〈シリーズ藩物語〉、2011年。