余土村
よどむら 余土村 | |
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余土村の共同田植(1922年) | |
廃止日 | 1954年10月1日 |
廃止理由 | 編入合併 松山市、余土村 → 松山市 |
現在の自治体 | 松山市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 四国地方 |
都道府県 | 愛媛県 |
郡 | 温泉郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
総人口 | 3,925人 (国勢調査、1950年) |
余土村役場 | |
所在地 | 愛媛県温泉郡余土村 |
座標 | 北緯33度48分56秒 東経132度44分01秒 / 北緯33.81542度 東経132.73361度座標: 北緯33度48分56秒 東経132度44分01秒 / 北緯33.81542度 東経132.73361度 |
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余土村(よどむら)は愛媛県伊予郡のち温泉郡にあった村である。1954年に松山市に編入合併し、自治体としては消滅した。「余土」の名は市立小中学校の名として継承されている。現在は町丁名として「余戸」(ようご)と表記される地域があるが、それは旧余土村域の一部である。
地理
[編集]位置・地形
[編集]松山平野の西部、重信川下流右岸域と、重信川に出合で合流する石手川の下流流域。
平坦な農地が広がる水田地帯。明治期から耕地整理が盛んにおこなわれた。
現在では市街化が著しい。
河川
地名の由来
[編集]余土の由来は「和名抄」によると伊予郡余戸(あまるべ)郷に属し、余土に訛って変わったことから誕生したといわれている[1]。
地域・集落
[編集]町村制施行による合併成立前の旧村である余戸(ようご)、保免(ほうめん)、市坪(いちつぼ)がそのまま「大字」となった。
合併の準備段階では上記3か村に東垣生(ひがしはぶ)、西垣生(にしはぶ)の2か村も加入し、「出合村」(であい)を新設することが検討されたが、余戸村と西垣生村とが反対し、結局余土村と垣生村に分村することで決着した[2]。
歴史
[編集]- 1889年(明治22年)12月15日 - 町村制施行により余戸村、保免村、市坪村が合併して伊予郡余土村が発足した。
- 1890年(明治23年)5月16日 - 余土尋常小学校開校[3]。
- 1896年(明治29年)7月4日 - 南予鉄道余戸駅開業。
- 1897年(明治30年)4月1日 - 所属郡が温泉郡に変更した。
- 1898年(明治31年)2月 - 森恒太郎(森盲天外)が第二代村長に就任、1907年(明治40年)に勇退した[4]。
- 1899年(明治32年)10月 - 「余土村村是調査」に着手(1900年完成)[5]。
- 1900年(明治33年)5月1日 - 南予鉄道が伊予鉄道と合併。
- 1903年(明治36年)7月1日 - 大阪府で開催された第五回内国勧業博覧会に「余土村村是調査」を出品し、一等賞となる[6]。
- 1905年(明治38年) - 余土村青年会発足[7]。
- 1907年(明治40年) - 村内での耕地整理事業開始[7]。
- 1909年(明治42年) - 大字市坪の耕地整理完了[7]。
- 1911年(明治44年) - 出合橋(初代)開通[8]。
- 1912年(明治45年) - 大字余戸の耕地整理完了[7]。
- 1914年(大正 3年) - 大字保免の耕地整理完了[7]。
- 1919年(大正 8年) - 伊予鉄道郡中線に並行する新道開通[9](現在の愛媛県道326号松山松前伊予線)。
- 1922年(大正11年)春 - 村歌を制定する[10]。
- 1924年(大正13年)5月 - 余土橋開通[11]。
- 1928年(昭和 3年) - 優良模範村として内務省から表彰される[7]。
- 1938年(昭和13年)4月24日 - 出合橋(2代目)開通[12]。
- 1942年(昭和17年)5月15日 - 余土村郷土館を設立[13]。
- 1945年(昭和20年)11月3日 - 新生青年団発足[14]。
- 1947年(昭和22年)
- 1950年(昭和25年)5月10日 - 伊予鉄道郡中線が電化される。
- 1954年(昭和29年)10月1日 - 松山市に編入され消滅。
行政
[編集]歴代村長
[編集]代 | 氏名 | 在任時期 |
---|---|---|
初代 | 松田久次郎 | 1890年 2月 - 1898年 2月 |
第2代 | 森恒太郎(盲天外) | 1898年 2月 - 1907年12月 |
第3代 | 玉井春太郎 | 1907年12月 - 1915年12月 |
第4代 | 池内清間 | 1915年12月 - 1918年 1月 |
第5代 | 竹田次郎 | 1918年 5月 - 1922年 2月 |
第6代 | 鶴本房五郎 | 1922年 2月 - 1928年 3月 |
第7代 | 森千枝松 | 1928年 3月 - 1928年11月 |
第8代 | 森弥三郎 | 1928年11月 - 1930年12月 |
第9代 | 池内銀蕩 | 1930年12月 - 1934年12月 |
第10代 | 鶴本房五郎 | 1934年12月 - 1936年 6月 |
第11代 | 森千枝松 | 1937年 3月 - 1938年 6月 |
第12代 | 本田九郎 | 1938年 8月 - 1946年 8月 |
第13代 | 森千枝松 | 1946年 8月 - 1954年 9月 |
役場
[編集]最初の所在地は余戸字払川の旧庄屋宅の裏手にあった。その後1901年と1905年に移転し、さらに1909年5月余戸字天復寺に移転した[18]。
他官公署
[編集]- 余土村巡査駐在所 - 1889年設置。駐在所の所在地も何度か変更があった[19]。
- 余戸郵便局 - 1909年開局[5]。
- 余土村農会 - 1896年発足[20]。
- 余土村産業組合 - 1908年設立[21]。
教育
[編集]- 両学校共に現在、松山市立となっている。
交通
[編集]鉄道
[編集]道路
[編集]- 大洲街道
- 三津浜街道
- 垣生街道
名所・旧跡
[編集]- 日招八幡大神社(大字保免字果里月高森)
- 三島大明神社(大字余戸竹の宮)
- 素鵞神社(大字市坪字北青木)
ゆかりのある人物
[編集]注釈・出典
[編集]- ^ 愛媛新聞社, ed (1985). 愛媛県百科大事典. す〜わ. 愛媛新聞社. p. 634
- ^ 垣生公民館 『垣生のあゆみ』 1988年、16-18頁
- ^ 『わたしたちの余土』 76頁
- ^ 愛媛の偉人・賢人の紹介(森盲天外)(2013年10月29日時点のアーカイブ)
- ^ a b 愛媛新聞社, ed (1985). 愛媛県百科大事典. す〜わ. 愛媛新聞社. p. 635
- ^ 『余土村誌』 442-443頁
- ^ a b c d e f 『わたしたちの余土』 93頁
- ^ 『余土村誌』 834-835頁
- ^ 『余土村誌』 827頁
- ^ 『余土村誌』 801-803頁
- ^ 『川に挟まれて410年 いちのつぼ沿革史』 77頁
- ^ 松山市史編集委員会 『松山市史 第5巻 年表・文化財』 松山市役所、1995年、376頁
- ^ 『余土百年のあゆみ』 214-215頁
- ^ 『余土村公民館の経営』 4頁
- ^ 『余土村公民館の経営』 6頁
- ^ 沿革 - 松山市立余土中学校
- ^ 『川に挟まれて410年 いちのつぼ沿革史』 128頁
- ^ 『余土村誌』 223-228頁
- ^ 『余土村誌』 228-230頁
- ^ 『わたしたちの余土』 92頁
- ^ 『余土村誌』 232-233頁
- ^ 湯山勇伝編集委員会 『湯山勇伝(上巻) 平和と社会正義の生涯』 1986年、82-89頁
参考文献
[編集]- 鶴本房五郎 『余土村誌』 1925年
- 温泉郡余土村役場 『昭和九年八月 余土村勢概要』 1934年
- 余土村公民館 『余土村公民館の経営』 温泉郡余土村、1948年
- 松山市立余土小学校 『わたしたちの余土』 1979年
- 余土小創立百年記念誌編集委員会・創立百周年記念事業推進委員会 『余土百年のあゆみ』 松山市立余土小学校、1989年
- 池田宏信 『川に挟まれて410年 いちのつぼ沿革史』 2018年