倭の六県
倭の六県(六御縣、やまとのむつのあがた)は、古代の大和国にあった大王(皇室)の直轄地である。
645年(大化元年)8月5日に、東国の国司とともに使者が派遣され、造籍(戸籍作成)・校田(田畝調査)が行われた[1]。 「六県」は『和名類聚抄』での以下の各郡域に相当する。
- 曽布(添)県 (そふ) - 添上郡、添下郡
- 山辺県(やまのべ) - 山辺郡
- 磯城県(しき、志貴) - 式上郡、式下郡
- 十市県(とおち) - 十市郡
- 高市県(たけち) - 高市郡
- 葛城県(かつらぎ、葛木) - 葛上郡、葛下郡
域内には県名を冠する添御県坐神社(奈良市三碓、奈良市歌姫町)、山邊御県坐神社(天理市別所町、天理市西井戸堂町)、志貴御県坐神社(桜井市三輪金屋)、十市御縣坐神社(橿原市十市町)、高市御県神社(橿原市四条町)、葛木御県神社(葛城市葛木)の式内社が置かれている。
『延喜式』にある27篇の祝詞のうち祈年祭(としごいのまつり)には上記の「六の御県(みあがた)」の名前が見え、蔬菜を献上したとある。六県は奈良盆地の全域を占めるが、広大なものではない。
624年(推古天皇32年)、蘇我馬子は推古天皇に、県の一つである葛城県は蘇我氏の本居(うぶすな)で、(蘇我一族の「臣(おみ)」という)「姓名(かばねな)」もそこに由来するものだから、「封県」に賜りたいと懇願したが、蘇我氏の血をひく女帝から拒絶された、ともある[2]。