元泉馨
元泉 馨(もといずみ かおる、1893年〈明治26年〉5月11日[1][2] - 1948年〈昭和23年〉7月15日[1][注 1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。変名・元金福[1]。
経歴
[編集]愛媛県出身[1][2][3]。小学校・元泉久吉の三男として生まれる[1]。横浜第一中学校(現神奈川県立希望ヶ丘高等学校)卒業を経て、1915年(大正4年)5月、陸軍士官学校(27期)を卒業し、同年12月、陸軍騎兵少尉に任官し騎兵第11連隊付となる[1][2][4]。1926年(大正15年)12月、陸軍大学校(38期)を卒業した[1][2][3]。
1927年(昭和2年)3月、騎兵第11連隊中隊長に就任し、陸士教官を経て、1931年(昭和6年)8月、騎兵少佐に昇進し近衛師団参謀となる[1]。1932年(昭和7年)12月、陸軍騎兵学校教官に転じ、1936年(昭和11年)3月、騎兵中佐に進む[1]。同年8月、陸士付となり、騎兵第23連隊付、騎兵第118大隊長を務め、1939年(昭和14年)3月、騎兵大佐に昇進した[1][3]。
1939年9月、留守第14師団司令部付となり、捜索第24連隊長を経て、1940年(昭和15年)8月、第17師団参謀長に発令され日中戦争に出征した[1][2][3]。1942年(昭和17年)8月、関東軍司令部付(満州国軍軍官学校顧問)に転じ、1943年(昭和18年)8月、陸軍少将に進級[1][2][3]。1945年(昭和20年)3月、独立歩兵第14旅団長に就任し終戦を迎えた[1][2][3]。
1946年(昭和21年)3月16日、北支那方面軍司令部付となる[1]。その後、国共内戦に元金福中将として参戦[1]。1948年(昭和23年)1月31日、公職追放仮指定を受けた[5]。同年7月、山西省で紅軍と戦闘中に戦傷を受けて自決した[1]。
親族
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『日本陸軍将官辞典』723頁では7月16日。