八隅錦三郎
八隅 錦三郎 | |
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生誕 | 1889年5月4日 日本 福岡県 |
死没 | 1960年7月22日(71歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1912年 - 1945年 |
最終階級 | 陸軍中将 |
八隅 錦三郎(やすみ きんざぶろう、1889年〈明治22年〉5月4日[1] - 1960年〈昭和35年〉7月22日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍中将。
経歴・人物
[編集]福岡県出身[1]。1912年(明治45年)陸軍士官学校第24期卒業、陸軍工兵少尉に任官[2][3]。
1938年(昭和12年)工兵第101連隊長(上海派遣軍、第101師団)に任官し、支那事変に出征[1][4]。クリーク争奪戦、武漢作戦、南昌会戦などで連隊を率いた[1]。
その後、1939年(昭和13年)陸軍工兵大佐、1940年(昭和15年)陸軍工兵学校教導隊長、1941年(昭和16年)第2工兵隊司令部附を経て、大東亜戦争に入ると1942年(昭和17年)7月に第1工兵隊司令官(関東軍、第5軍)となり出征した[2][4][5]。さらに同年8月に陸軍少将、1945年(昭和20年)4月30日には陸軍中将に昇進[1]。同年5月5日に陸軍歩兵学校附、翌月の6月1日には第320師団長(関東軍、第17方面軍)に補任し、釜山付近で陣地構築および練兵中に終戦を迎えた[1][2]。
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[6]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。