劉慶 (清河王)
劉 慶(りゅう けい、78年 - 106年)は、後漢の皇族。清河孝王。
経歴
[編集]78年(建初3年)、章帝と宋貴人のあいだの子として生まれた。79年(建初4年)4月、皇太子に立てられた。82年(建初7年)6月、劉慶は太子を廃位されて清河王となり、皇子劉肇が代わって皇太子に立てられた。母の宋貴人は邪な媚道をおこなったと誣告されて、自殺させられた。太子の劉肇は劉慶を特に親愛し、いつも連れだってともに入室し、同じ輿に乗って外出した。劉肇(和帝)が即位すると、劉慶に対する優遇ぶりは諸王に比類なく、いつもともに私事を話し合っていた。
後に劉慶が成長すると、丙舎に別居した。92年(永元4年)、和帝が北宮章徳殿に幸し、白虎観で講義すると、劉慶は入省して宮中に宿泊した。和帝は竇氏一族を処断しようと考えて、『漢書』外戚伝が欲しいと言い出した。皇帝の側近たちが恐れて使者に立とうとしなかったため、劉慶が千乗王劉伉を連れて外戚伝を求め、夜中にこっそりとこれを読んだ。劉慶が外戚伝の内容を和帝に語ると、中常侍の鄭衆は前漢の文帝が薄昭を自殺させ、武帝が竇嬰を処刑した故事を解説した。和帝が竇憲を自殺させると、劉慶は奴婢・馬・銭・帛などの報賞を受けた。
103年(永元15年)、和帝の南巡に従った。官僚たちは王侯たちを国に赴任させるよう求めたが、和帝は聞き入れなかった。105年(元興元年)12月、和帝が死去すると、劉慶は前殿で号泣して、数升の血を吐き、病床に伏した。
106年(延平元年)8月、殤帝が死去すると、劉慶と左姫のあいだに生まれた劉祜(安帝)が即位した。劉慶は清河国に入り、12月甲子に29歳で死去した。広丘に葬られ、孝徳皇と追尊された。
妻子
[編集]妃
[編集]男子
[編集]- 安帝 劉祜
- 清河愍王 劉虎威
- 広川王 劉常保
女子
[編集]- 涅陽長公主 劉侍男(岑彭の玄孫の細陽侯岑熙にとついだ)
- 舞陰長公主 劉別得(鄧禹の玄孫の高密侯鄧褒にとついだ)
- 濮陽長公主 劉久長(耿弇の曾孫の好畤侯耿良にとついだ)
- 平氏長公主 劉直得(来歙の玄孫の征羌侯来定にとついだ)
- 陰城公主 劉堅得(班超の孫の定遠侯班始にとついだ)
伝記資料
[編集]- 『後漢書』巻55 列伝第45