殤帝 (漢)
殤帝 劉隆 | |
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後漢 | |
第5代皇帝 | |
王朝 | 後漢 |
在位期間 | 元興元年12月22日 - 延平元年8月6日 (106年2月13日 - 9月21日) |
都城 | 雒陽(洛陽) |
姓・諱 | 劉隆 |
諡号 | 孝殤皇帝 |
生年 | 元興元年(105年) |
没年 | 延平元年8月6日 (106年9月21日) |
父 | 和帝 |
陵墓 | 康陵 |
年号 | 延平(106年) |
殤帝(しょうてい)は、後漢の第5代皇帝。
生涯
[編集]後漢の第4代皇帝和帝は多くの皇子をもうけたが、いずれも夭折していた。宦官・外戚による謀殺の疑惑を抱いた和帝は、皇子を民間で養育することとした。
元興元年12月(106年2月)、和帝が崩御した際、長男の劉勝は病気を理由に即位が見送られ、劉隆が宮廷に迎えられて皇帝に即位した。劉勝は殤帝即位と共に平原王に立てられた。
即位した殤帝は生後100日余りであり、朝政は外戚の鄧氏(和帝の皇后だった鄧綏と、その兄の車騎将軍の鄧騭)により掌握された。延平元年(106年)8月辛亥、崩御。夭折を意味する「殤」を諡号に贈られた。
中国の歴代皇帝のうち、最年少の皇帝である。
関連項目
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