原勝郎 (歴史家)
原勝郎 (歴史家) | |
人物情報 | |
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生誕 | 1871年4月15日 日本岩手県盛岡市 |
死没 | 1924年1月12日 (52歳没) 日本京都府 |
出身校 | 東京帝国大学 |
学問 | |
研究分野 | 歴史学(西洋史) |
研究機関 | 京都帝国大学 |
学位 | 文学博士 |
原 勝郎(はら かつろう、1871年4月15日(明治4年2月26日) - 1924年(大正13年)1月12日)は、日本の歴史学者。文学博士。京都帝国大学教授、京都帝国大学文学部長。
経歴
[編集]岩手県盛岡市出身。旧盛岡藩士・原勝多の長男として生れる。盛岡中学校、第一高等学校を経て、1896年、東京帝国大学文科大学史学科を卒業[1][2]し大学院に進む。1896年12月から一年志願兵として近衛歩兵第4連隊に入営。1899年2月、陸軍歩兵少尉に任官し、1904年、歩兵中尉に進級。
1899年9月、第一高等学校教授となり、1902年10月、文学博士号を取得[3]。1907年2月から1909年3月までイギリス、アメリカ、ドイツに留学[4]。帰国後、新設の京都帝国大学文科大学西洋史講座教授に就任した。1922年4月から1924年1月まで文学部長を勤める。和辻哲郎や西田幾多郎らと同僚であった。
1924年、直腸癌と癌性腹膜炎のため京都で死去[5]。墓所は盛岡市の法華寺にある。
業績
[編集]- 専攻は西洋史だが、日本史にも通じていて日本通史を英語で執筆・出版したことでも知られている。また西洋史の研究を通じて日本にも中国のそれとは異なる封建制など西洋史の中世と同じようなものがあったことを指摘し、それは他のアジア諸国と日本との違いであると主張した。
- 『吾妻鏡』の史料としての価値と限界についてなど、鎌倉時代について文化史から考察論考を書いている。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
家族・親族
[編集]著作
[編集]- 「吾妻鏡の性質及其史料としての價値」「史学雑誌」、1898年(明治31年)
- 『昨年の欧米 一九一一年』冨山房(1912年)
- 『南海一見』東亜堂書房、1914年(大正3年)。中公文庫で再刊
- 『欧米最近世史十講』弘道館、1915年(大正4年)
- 「東山時代に於ける一縉紳の生活」「藝文」京都大学文学部、1917年(大正6年)
- 『An introduction to the history of Japan』Yamato Society publication G.P. Putnam's Sons, New York 1920年(大正9年)
- 『世界大戦史』同文館、1925年(大正14年)
- 『日本中世史之研究』同文館、1929年(昭和4年)
- 『西洋中世史概説・宗教改革史』同文館、1931年(昭和6年)
脚注
[編集]- ^ 『官報』第3910号、明治29年7月11日、p.119
- ^ 『東京帝国大学一覧 従明治29年至明治30年』帝国大学、1896年、527頁 。
- ^ 『官報』第5785号、明治35年10月14日、p.260
- ^ “国立公文書館 アジア歴史資料センター”. www.jacar.archives.go.jp. 2018年12月11日閲覧。
- ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』(吉川弘文館、2010年)p.243
- ^ 『官報』第126号「叙任及辞令」1912年12月29日。
- ^ 『官報』第1657号、「叙任及辞令」1918年02月13日。
- ^ a b 『官報』第3418号「叙任及辞令」1924年1月17日。