吉川友兼
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代 |
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生誕 | 保元4年/平治元年(1159年) |
死没 | 正治2年1月21日(1200年2月7日)[1] |
別名 | 小次郎[1]、小二郎[2]、小杉二郎[1]、小杉友兼、兼友 |
戒名 | 道哲 |
墓所 | 安養寺 |
官位 | 左衛門尉[1][2] |
主君 | 鎌倉幕府 |
氏族 | 藤原南家工藤流吉川氏 |
父母 | 父:吉川経義[1][2] |
妻 | 二階堂氏女(二階堂行政息女?) |
子 | 朝経[1] |
吉川 友兼(きっかわ ともかね)は、鎌倉時代の武士、御家人。吉川氏2代当主。
生涯
[編集]文治5年(1189年)の源頼朝に従い奥州合戦に出陣。その武勇を認められ、翌建久元年(1190年)、頼朝の初入洛にも従った。建久4年(1193年)の富士の巻狩りの警護役を務め、曾我兄弟の仇討ちに伴う混乱への対応にも当たった。
正治2年(1200年)の梶原景時一族追討(梶原景時の変)の際に所領のある駿河国で、梶原景時一行の不審な動きを捕捉し、他の在地武士と共に襲撃して、景時の三男で豪勇で知られる梶原景茂を討ち取る[注釈 1]も、友兼も深手を負っており、そのまま死去した。
友兼は死亡したが、子の朝経が加増され、梶原氏の所領であった播磨国揖保郡福井荘の地頭に任ぜられた。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 今井尭ほか編『日本史総覧』 3(中世 2)、児玉幸多・小西四郎・竹内理三監修、新人物往来社、1984年3月。ASIN B000J78OVQ。ISBN 4404012403。 NCID BN00172373。OCLC 11260668。全国書誌番号:84023599。
- 岡部忠夫編著『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。ASIN B000J785PQ。 NCID BN01905560。全国書誌番号:84027305。
- 北広島町史
- 中国新聞社『歴史紀行 安芸吉川氏』新人物往来社、1988年6月。ISBN 4-404-01517-8。
- 洞院公定 著「藤原南家」、今泉定介 編『尊卑分脈』 第3巻、吉川弘文館、東京〈故実叢書〉、1899年。 NCID BN12488942。全国書誌番号:40013115。NDLJP:771957/39