梶原景茂
『英雄百首』(歌川貞秀画) | |
時代 | 平安時代末期 - 鎌倉時代初期 |
生誕 | 仁安2年(1167年) |
死没 | 正治2年1月20日(1200年2月6日) |
別名 | 三郎、三郎兵衛尉 |
墓所 | 静岡県静岡市葵区長尾 梶原山公園梶原堂 |
官位 | 左兵衛尉 |
幕府 | 鎌倉幕府 |
主君 | 源頼朝、頼家 |
氏族 | 桓武平氏良文流、梶原氏 |
父母 | 父:梶原景時、母:不詳 |
兄弟 | 景季、景高、景茂、景義、景宗、景則、景連 |
子 | 景俊、景永 |
梶原 景茂(かじわら かげもち)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。梶原景時の三男で、鎌倉幕府の御家人。
生涯
[編集]梶原景時の三男で、源頼朝に従い源平合戦(治承・寿永の乱)で戦功を挙げる。文治5年(1189年の)奥州合戦でも戦功を挙げ、建久元年(1190年)には頼朝の上洛に父景時らとともに従い、頼朝より有功の者として景時が推挙を受けたため、既に叙任を受けていた父の譲りによって左兵衛尉に任じられた[1]。正治元年(1199年)、御家人66名による梶原景時糾弾の連判状によって鎌倉を追われ、相模国一ノ宮の梶原館へと戻る。翌正治2年(1200年)正月、一族郎党を引き連れ京へと上ろうとするが、途中駿河国にて在地武士団の襲撃を受け、駿河国狐ケ崎で吉川友兼と一騎討ちの末、討ち取られた(友兼も戦傷で間もなく死亡)。
逸話
[編集]文治2年(1186年)、鎌倉に呼び寄せられていた静御前の館へ、工藤祐経、千葉常秀、八田知重、藤原邦通らと訪れ、舞を楽しんだ。しかし酔っ払って静御前を口説き、苦情が出たという逸話が『吾妻鏡』に残っている。
子孫
[編集]鎌倉時代編纂の早馬神社縁起、江戸時代の仙台藩編纂地誌『奥羽観蹟聞老志』『封内風土記』『封内名跡志』『風土記御用書出』によると、景茂の子の景永が陸奥国の早馬神社に下向したとされ、現在も梶原氏子孫が宮司を務めている。
室町時代には畿内、さらに阿波国、讃岐国へと広がり、一部は尾張国に住み、織田信長の家臣となった。
画像集
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『梶原景時の生涯』
- 『梶原平三景時』 府川松太郎著
- 『梶原景時―知られざる鎌倉本体の武士』 梶原等著 新人物往来社、2004年、ISBN 4404031874
- 佐久間洞巖『奥羽観蹟聞老志 巻之九 気仙郡』宮城県、1883年。 NCID BA55683008。NDLJP:993129。
- 伊勢斉助『奥羽観蹟聞老志 補修篇 巻之九 本吉郡』仙台叢書刊行会〈仙台叢書 第十六巻〉、1929年。 NCID BN06896627。