吉川惟足
吉川 惟足(よしかわ/きっかわ これたり/これたる、元和2年(1616年) - 元禄7年11月16日(1695年1月1日))は、江戸時代前期の神道家[1]。吉川神道の創始者。初名は元成と称し、後に惟足と改め、その後、萩原兼従の門下に入ったおりに一字を取り、従時と称した[2]。号は視吾堂・相山隠山・相山隠士など称す。姓は「きっかわ」、名は「これたる」とも伝わる。
経歴
[編集]元和2年(1616年)、江戸日本橋にて誕生。幼名を千代松丸(または、千代松)。
幼少の頃は大阪・堺で暮らすが、9歳のときに父が病死したため、江戸日本橋の商家に養子に入りした。業種は薬種、魚屋と諸説ある[3]。屋号は、尼崎屋五郎左衛門、張物屋七右衛門の2説がある[3]。家業を継ぎ商人として精励するが、寛永11年(1634年)に養父とも死別。以後、商いは順調でなかったため、慶安4年(1651年)に鎌倉へ隠居した。
鎌倉で歌道に勤しむ中で日本古典にも目を向け、『神代巻』や『中臣祓』など神道への興味が生じる[4]。ところが『中臣祓』の講義などを聴くが神典の文意は理解し難く、そんなおりに京都に萩原兼従の存在を知り、承応2年(1653年)に京都へ出てその門下に入る[5]。明暦2年(1656年)に兼従から吉田神道の唯一神道奥義を伝授され[6]、それを基盤とした新しい流派「吉川神道」を開いた。その後、江戸に戻り江戸幕府4代将軍・徳川家綱をはじめ、紀州徳川家・加賀前田家・会津保科家などの諸大名の信任を得て、天和2年(1667年)には5代将軍・徳川綱吉から幕府神道方を命じられた[7]。
以後、吉川家の子孫は幕府神道方を世襲した。また、会津藩からも合力米が給付されていた(はじめ50俵、後に30俵)、会津の古文書「續日記類寄續編」御知行・御扶持・御合力 の部に記録がある。具体的には、天保13年(1842年)12月28日江戸よりの書、表題は「吉川四方之進殿へ遣わされ候御合力米 嫡子富之進殿へ進ぜられ候節の事」の中に、「御代々神道御相伝格別の形をもって(中略)富之進殿へ年々30俵ずつ」とある。
なお、惟足の思想は江戸・会津・水戸などにも広まったが、後には弟子の山崎闇斎が提唱した垂加神道の勢力とほぼ合流した[8]。
関連書籍
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 平重道『吉川神道の基礎的研究』吉川弘文館、1966年。 NCID BN06626167。
- 土田誠一『吉川惟足の神道説』土田誠一、1932年。doi:10.11501/1209298。
- 永沢奉実『津軽史』 16巻、青森県文化財保護協会 (青森県立図書館内)〈みちのく双書 特輯〉、1986年。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 『国民思想叢書. 神道篇』加藤咄堂 編 国民思想叢書刊行会 p.26-36 「神道大意註」 (国立国会図書館)