吉田浩 (サッカー選手)
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名前 | ||||||
カタカナ | ヨシダ ヒロシ | |||||
ラテン文字 | YOSHIDA Hiroshi | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1943年 | |||||
出身地 | 広島県 | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | HB、FW | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1966-197? | 東洋工業 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
吉田 浩(よしだ ひろし、1943年10月9日 - )は、広島県出身の元サッカー選手。
来歴
[編集]父親は東洋工業(現:マツダ)で働き、1947年労務部長時代に東洋工業蹴球部(のちのマツダSC、現:サンフレッチェ広島)を復活させた中心人物。
修道高校時代は下村幸男監督の下、森孝慈や中村勤らとともに、1961年国体優勝。さらに全国高校サッカー選手権で釜本邦茂、二村昭雄を擁する京都府代表の山城高校を破り優勝、高校2冠を達成した。同年、バンコクで開催された第4回アジアユースサッカー日本代表に選ばれる。
1962年立教大学へ入学、先輩に渡辺正がいた。故障しがちであまり活躍しなかった。
卒業後は東洋工業へ入社、東洋工業蹴球部に在籍。ハーフバックとして、小城得達や二村昭雄などと共に東洋工業の中盤を組み、1969年のJSLでは得点ランキング4位(6点)、1970年天皇杯優勝など黄金期の一躍を担った。
その後、主力FW陣の引退と共にフォワードにコンバートされ、そのキープ力はチームに貴重なアクセントを与えた。
所属クラブ
[編集]個人成績
[編集]国内大会個人成績 | |||||||||||
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年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
日本 | リーグ戦 | JSL杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
1966 | 東洋 | JSL | 0 | 0 | - | ||||||
1967 | 東洋 | JSL | 1 | - | |||||||
1968 | 東洋 | JSL | 2 | - | |||||||
1969 | 東洋 | JSL | 6 | - | |||||||
1970 | 東洋 | JSL | 11 | - | |||||||
1971 | 東洋 | JSL | - | ||||||||
1972 | 東洋 | JSL1部 | - | ||||||||
通算 | 日本 | JSL1部 | 47 | 11 | - | ||||||
総通算 | 47 | 11 | - |
参考文献
[編集]- 『月刊サッカーマガジン』1966年06月01日号
- 月刊サッカーマガジン1972年06月01日号JSL人物レビュー