堺井秀雄
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名前 | ||||||
カタカナ | サカイ ヒデオ | |||||
ラテン文字 | Sakai Hideo | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | 日本 | |||||
生年月日 | 1909年6月[1] 大日本帝国, 兵庫県芦屋市[2] | |||||
没年月日 | 1996年6月3日(86歳没) 日本, 兵庫県西宮市[3] | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | FW | |||||
ユース | ||||||
19xx-1931 | 関西学院大学 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
関学クラブ | ||||||
代表歴 | ||||||
1934 | 日本 | 3 | (0) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
堺井 秀雄(さかい ひでお、 1909年6月16日 - 1996年6月3日)は、兵庫県芦屋市出身[2] のサッカー選手、会社役員。
人物
[編集]幼少期は兵庫県神戸市で過ごした。関西学院高等商業学部(現在の関西学院大学商学部)に入学[1] して、サッカー部に所属。関学クラブの一員として1929年10月および1930年2月に開催された2度のア式蹴球全國優勝競技會(第9回天皇杯全日本サッカー選手権大会および第10回天皇杯全日本サッカー選手権大会)で後藤靱雄らと共に2大会連続で優勝した。そのプレースタイルは地味ながらもシュート力は正確無比であった[4]。
1932年3月に卒業[1] して、湯浅蓄電池製造(現在のジーエス・ユアサコーポレーション)に入社。1934年5月に開催された第10回極東選手権競技大会のサッカー日本代表に選出され、オランダ領東インド代表戦など3試合に出場した[5]。
現役を引退後は社業に専念。1949年11月に湯浅蓄電池製造の取締役、1953年8月に同社常務取締役(兼業務部長)、1954年5月に湯浅乾電池(1954年9月に湯浅蓄電池製造と合併して湯浅電池)の常務取締役、1957年3月には蓄電池事業部の部長を委嘱、1966年11月に湯浅電池の専務取締役を夫々歴任した[1]。
絵を愛し、時間のあるときは自宅アトリエで油絵を描いていた。全国天皇杯実行委員会副委員長の依頼で第52回全国天皇杯の1972年から1991年まで天皇杯全日本サッカー選手権大会のパンフレットの表紙絵を19年間に渡り描いていた。堺井氏の絵は財界人絵画展などにもたびたび出展されていた。
1996年6月3日、兵庫県西宮市で肺炎により死去した[3]。
代表歴
[編集]出場大会
[編集]試合数
[編集]- 国際Aマッチ 3試合 0得点(1934)
日本代表 | 国際Aマッチ | その他 | 期間通算 | |||
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年 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
1934 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
通算 | 3 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 |
出場
[編集]No. | 開催日 | 開催都市 | スタジアム | 対戦相手 | 結果 | 監督 | 大会 |
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1. | 1934年05月13日 | マニラ | オランダ領東インド | ●1-7 | 竹腰重丸 | 極東選手権 | |
2. | 1934年05月15日 | マニラ | フィリピン | ○4-3 | 極東選手権 | ||
3. | 1934年05月20日 | マニラ | 中華民国 | ●3-4 | 極東選手権 |
出典
[編集]関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 堺井秀雄 - National-Football-Teams.com