夕暮 (初春型駆逐艦)
夕暮 | |
---|---|
基本情報 | |
建造所 | 舞鶴工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 初春型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | ①計画 [1] |
起工 | 1933年4月9日[2] |
進水 | 1934年5月6日[2] |
竣工 | 1935年3月30日[2] |
最期 | 1943年7月20日戦没 |
除籍 | 1943年10月15日 |
要目 | |
基準排水量 | 1,400t |
公試排水量 | 1,680t |
全長 | 109.5m |
最大幅 | 10.6 m |
吃水 | 3.5 m |
主缶 | ロ号艦本式缶3基 |
主機 | オール・ギアードタービン2基2軸 |
出力 | 420,000hp |
最大速力 | 35.0kt |
乗員 | 205名 |
兵装 | 50口径12.7cm連装砲2基4門 同単装砲1基1門 40mm単装機銃2基 61cm3連装魚雷発射管 3基9門(八年式魚雷18本) |
その他 | 特記を除き計画時の要目 |
夕暮(ゆうぐれ/ゆふぐれ)は、日本海軍の駆逐艦[3]。日本海軍の艦艇名としては1906年(明治39年)竣工の神風型駆逐艦 (初代)・夕暮に次いで2隻目。
概要
[編集]一等駆逐艦夕暮(ゆうぐれ/ゆふぐれ)は[1]、日本海軍が舞鶴海軍工廠で建造した駆逐艦[4]。初春型駆逐艦の6番艦である[5][6]。有明型駆逐艦に類別されていた時期があり[7]、また改初春型駆逐艦ともよばれる[8]。
1935年(昭和10年)3月に竣工した[3]。 太平洋戦争開戦後、ひきつづき第一水雷戦隊隷下の第27駆逐隊[注釈 1](有明[11]、夕暮、白露[12]、時雨[13])に所属した。夕暮は27駆僚艦とともに南雲機動部隊の内地帰投支援、アンボン攻略作戦、ポートダーウィン空襲(第二航空戦隊護衛)、珊瑚海海戦(第五航空戦隊護衛)、ミッドウェー海戦(主力部隊護衛)、ガダルカナル島輸送作戦、第三次ソロモン海戦(戦艦比叡救援)、コロンバンガラ島沖海戦などに参加した[4]。
1943年(昭和18年)7月20日、コロンバンガラ島近海において重巡洋艦部隊[注釈 2]と共に行動中、夜間空襲により夕暮と清波[15]は撃沈された(ニュージョージア島の戦い)[16]。
艦歴
[編集]太平洋戦争まで
[編集]1932年(昭和7年)12月10日、浦賀船渠で建造の駆逐艦に初霜(はつしも)、神戸川崎造船所の駆逐艦に有明(ありあけ)、舞鶴要港工作部の駆逐艦に夕暮(ゆふぐれ)の艦名が与えられた[1][17]。3隻は初春型駆逐艦に類別された[18]。 夕暮は1933年(昭和8年)4月9日、舞鶴工廠で起工した[2]。5番艦有明から魚雷3連装3基9門から4連装2基8門に設計変更され、さらに1番艦初春と2番艦子日が公試運転で復原性能が不良と判明し、有明はバルジで対応、夕暮は全幅を変更する修整が行われた[8]。 同年12月15日、有明と夕暮は有明型駆逐艦へ類別変更された[7]。
しかし1934年(昭和9年)3月に友鶴事件が発生し、各艦はさらなる改修に迫られた[19]。5月6日、夕暮は進水した[2][20]。 上甲板の重量を減らすため魚雷は3連装2基6門とし、第2砲塔の移設や艦橋の小型化など初春に準じた変更が行われた。夕暮の特徴は、巡洋艦最上や三隈および空母蒼龍と同様に、二枚舵を装備している点である[21]。実際に運用したところ二枚舵の効果は疑わしく、後日、一枚舵に変更された[22]。 また同時期の舞鶴海軍工廠は標的艦摂津搭載予定の自動燃焼装置製造を命じられており、試作品を舞鶴で建造中の夕暮に搭載して試験をおこなった[23]。 結局、11月19日をもって有明型駆逐艦(有明、夕暮、白露、時雨、村雨、夕立、春雨)は解消され、白露型駆逐艦が新設、有明と夕暮の類別は初春型駆逐艦に戻った[24]。
1935年(昭和10年)3月30日、夕暮は竣工した[22]。横須賀鎮守府籍。 4月1日、日本海軍は有明[11][注釈 3]と夕暮で第9駆逐隊を編制した[9]。 第9駆逐隊は第二航空戦隊(空母赤城)に編入された[26]。11月15日付の艦隊編制で、二航戦は空母加賀と第29駆逐隊となり、第9駆逐隊は第一水雷戦隊に転籍した[26]。 1936年(昭和11年)11月1日、白露型駆逐艦の白露[注釈 4]と時雨[注釈 5]が第9駆逐隊に加わった[29]。
1938年(昭和13年)12月15日、第9駆逐隊は佐世保鎮守府へ転籍し、第27駆逐隊に改称した[10]。 1939年(昭和14年)11月15日[25]、第27駆逐隊は第一水雷戦隊に編入された[注釈 6][30]。 1940年(昭和15年)9月、第27駆逐隊は北部仏印進駐に輸送船団護衛として参加した[31]。10月15日、加茂喜代之少佐が艦長に就任した[32]。11月15日、第一水雷戦隊(旗艦「阿武隈」)は第6駆逐隊、第7駆逐隊、第21駆逐隊、第27駆逐隊となった[33]。
太平洋戦争緒戦
[編集]1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦時[34]、第一水雷戦隊(司令官大森仙太郎少将)は軽巡洋艦阿武隈、第6駆逐隊、第17駆逐隊、第21駆逐隊、第27駆逐隊で編制されていた[35][注釈 7]。 12月8日朝、山本五十六連合艦隊司令長官が直率する主力部隊[注釈 8]はハワイ攻撃後に内地へ帰投中の南雲機動部隊を収容するため、瀬戸内海から出撃する[38]。第21駆逐隊(子日、初春、初霜、若葉)と第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)は主力部隊を護衛し、小笠原諸島近海を行動した[39]。12月13日朝、主力部隊は桂島泊地に帰投した[40]。 その後、南雲機動部隊本隊(第一航空戦隊、第五航空戦隊)が日本本土に接近したので、第21駆逐隊と第27駆逐隊は瀬戸内海を出撃、機動部隊との合流地点にむかった[41]。第21駆逐隊と第27駆逐隊は機動部隊本隊を内地まで護衛する[42][注釈 9]。 つづいてウェーク島攻略戦に投入されていた機動部隊別働隊[注釈 10]が作戦を終えて日本列島に近づいていた[45]。第21駆逐隊と第27駆逐隊は再び瀬戸内海を出撃[41]、12月28日2300に機動部隊別働隊に合流、29日1530呉に到着した[45][46]。
ハワイ作戦終了後、機動部隊の各航空戦隊は分割されて各方面の作戦に従事することになり、第二航空戦隊は1942年(昭和17年)1月7日付で南方部隊に編入された[47][48]。まずモルッカ諸島アンボンを攻略することになり、第二護衛隊指揮官田中頼三少将(第二水雷戦隊司令官)が攻略の直接指揮をとった[49]。攻略作戦を支援する母艦航空部隊は、第二航空戦隊司令官山口多聞少将が指揮をとった[50]。第二航空戦隊(蒼龍、飛龍)、重巡摩耶[51]、第7駆逐隊、第27駆逐隊第2小隊(有明、夕暮)、補給艦という編成であった[49]。内地を出撃後、有明と夕暮は機動部隊の警戒艦としてアンボン攻略作戦、ポートダーウィン攻撃に参加した[4][25]。 2月10日、有明と夕暮は第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)と共に、機動部隊警戒隊に編入された[52]。2月21日、南雲機動部隊はスラウェシ島スターリング湾に入港した[53]。
蘭印作戦最終段階時、有明と夕暮は南雲機動部隊警戒隊に所属していた[注釈 11]。 2月25日0830、南雲機動部隊はスターリング湾を出撃、インド洋に進出した[55]。3月1日、機動部隊の護衛艦艇はオランダ商船モッドヨカード号(8,082トン)を撃沈した[55]。機動部隊はジャワ島南方で掃討作戦を実施、3月11日スターリング湾に戻った[56]。
4月12日、連合艦隊は第五戦隊(妙高、羽黒)[注釈 12]、第五航空戦隊(空母瑞鶴、翔鶴)、第7駆逐隊、第27駆逐隊の南洋部隊(南洋部隊指揮官は第四艦隊司令長官井上成美海軍中将)[57]編入を発令した(4月18日付で実施)[58]。南洋部隊はポートモレスビー攻略作戦(MO作戦)を発動し、第四艦隊司令長官の麾下に第五戦隊司令官高木武雄少将を指揮官とするMO機動部隊が編成された[59][注釈 13]。 MO機動部隊は、第五戦隊、五航戦、夕暮含め駆逐艦6隻[注釈 14]、油槽艦(東邦丸)で編成されていた[63][64]。 当時の五航戦はインド洋作戦を終えて内地へ帰投中であり、第27駆逐隊は佐世保にいた[65]。第27駆逐隊は台湾馬公市への進出および同地で五航戦と合流するよう命じられ佐世保を出発するが、4月18日0820に東京空襲の速報に接した[65](ドーリットル空襲)[66][67]。五航戦と第27駆逐隊は南雲機動部隊に編入される[65]。翌19日、6隻(五航戦、第27駆逐隊)は米軍機動部隊(ホーネット、エンタープライズ)追撃のため馬公から出撃したが[68]、同日1930に南洋部隊への復帰を命じられた[69]。4月25日夕刻、6隻はトラック泊地に到着した[70][71]。
5月初旬、第27駆逐隊はMO機動部隊としてポートモレスビー攻略作戦に参加した(海戦に至る経緯と経過は当該記事を参照)。5月1日、MO機動部隊はトラック泊地を出撃する[72][73]。5月7日に有明は翔鶴偵察機救助のため分離し[74]、また同日夜に第六戦隊第2小隊が合流したので[75]、5月8日時点のMO機動部隊は重巡4隻(妙高、羽黒、衣笠、古鷹)、五航戦(瑞鶴、翔鶴)、駆逐艦5隻(時雨、白露、夕暮、潮、曙)であった[76]。 同日の対空戦闘により、空母翔鶴が中破した[77][78]。4隻(衣笠、古鷹、夕暮、潮)は戦場を離脱する翔鶴を護衛したのち、夕暮を除いてMO機動部隊本隊に復帰した[79]。 翌9日、連合艦隊は翔鶴と夕暮を南洋部隊からのぞき主隊に編入、内地での修理を命じた[80][注釈 15]。夕暮と漣は傷ついた翔鶴を護衛して内地に向かった[81]。サイパン島近海で第15駆逐隊(黒潮、親潮、早潮)が合流し、共に翔鶴を護衛する[82]。17日[83]、翔鶴護衛隊は呉に到着した[81]。翔鶴の修理には三ヶ月かかると判定され、また瑞鶴の航空隊消耗もはげしく、五航戦はミッドウェー作戦に参加できなくなった[84]。
5月22日、夕暮以外の第27駆逐隊も呉に帰投した[85]。 ミッドウェー島攻略を目指すミッドウェー作戦において、第27駆逐隊は連合艦隊司令長官山本五十六大将(連合艦隊旗艦「大和」)と第一艦隊司令長官高須四郎長官が指揮する主力部隊に所属した[86]。主力部隊は山本長官直率の主隊と、高須長官を指揮官とする警戒部隊に分れていた[注釈 16][注釈 17]。5月29日、主力部隊は内海西部を出撃した[90]。ミッドウェー海戦は日本海軍の大敗で終わり、同作戦は6月6日に中止された[91]。6月14日、主力部隊はそれぞれ内地に帰投した[92]。
7月14日、ミッドウェー海戦後の大幅な艦隊再編で、第一水雷戦隊に所属していた第27駆逐隊は第二艦隊隷下の第四水雷戦隊に転籍した[93]。この時点での第四水雷戦隊(司令官高間完少将)は、軽巡洋艦由良、第2駆逐隊(村雨、五月雨、夕立、春雨)[注釈 18]、第9駆逐隊(朝雲、峯雲、夏雲)、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)であった。
ガダルカナル島の戦い
[編集]1942年(昭和17年)8月7日、連合軍はフロリダ諸島とガダルカナル島に上陸、ガダルカナル島の戦いがはじまる[94]。第二艦隊司令長官近藤信竹海軍中将(旗艦「愛宕」)指揮下の前進部隊(第四戦隊、第五戦隊、戦艦陸奥、第四水雷戦隊、水上機母艦千歳など)は8月11日から12日にかけて日本本土を出撃、17日トラック泊地に到着した[95]。
8月17日のアメリカ軍によるマキン奇襲上陸を受けて、一度攻略中止となっていたナウル島およびオーシャン島が再び俎上に載せられた[96]。ガダルカナル戦の関係から両島の飛行艇基地は敵に使わせてはならず、また両島に航空基地を確保する必要もあった[97]。8月21日に「夕暮」と「有明」がナウル島とオーシャン島に対する艦砲射撃を命じられ、8月22日に「夕暮」がオーシャン島を、「有明」がナウル島を砲撃した[98]。その後2隻はヤルート環礁へ向かった[99]。続いて両島の攻略が行われた(CD作戦)。「夕暮」は8月26日にオーシャン島に陸戦隊46名を揚陸し、同島を無血占領した[100]。 27日に僚艦白露が到着した[101]。夕暮はギルバート諸島アパママ攻略を命じられた[101]。 30日、第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)は輸送船香取丸を護衛してヤルートを出撃、途中で大同丸と合流してアパママに進撃、9月2日0630にアパママを無血占領した[102]。同日1730、攻略部隊はアパママを抜錨してタラワ島へ移動、3日に同島を無血占領した[103]。
オーシャン方面で行動中の8月27日、有明と夕暮は外南洋部隊(指揮官三川軍一第八艦隊司令長官)に編入された[104]。外南洋部隊は敷設艦津軽と哨戒艇(1号、2号)、駆逐艦陽炎と夕暮に対し、9月2日のガダルカナル島輸送を命じた[105]。 9月5日も駆逐艦5隻(吹雪、白雪、天霧、陽炎、夕暮)でガ島輸送を実施した[106]。 8日は軽巡川内(外南洋部隊増援部隊旗艦)、駆逐艦複数隻[注釈 19]と共にショートランド泊地を出撃、ルンガ泊地に突入して連合軍魚雷艇と交戦した[107]。
同時期、日本海軍の外南洋部隊増援部隊(指揮官橋本信太郎第三水雷戦隊司令官)が出撃拠点としていたブーゲンビル島ショートランド泊地は、連日B-17型重爆小数機の空襲を受けていた[108]。また日本軍はサンタイサベル島北西部のレカタ湾に水上機基地を設置しており、ガダルカナル島攻防戦が本格化するにつれ、この水上機基地の強化を企図した[109]。9月11日、R方面航空部隊指揮官(城島高次第十一航空戦隊司令官)は夕暮に対し、イサベル州フェラ島(戦史叢書ではファラ島と記載)に基地設置を命じた[109]。夕暮は13日にショートランド泊地を出撃、ファラ島にむかったがヘンダーソン飛行場基地に対する日本陸軍総攻撃が失敗に終わったことを受け、命令によりショートランド泊地に帰投した[110]。14日、レカタ基地の燃料逼迫により、補給物資やファラ島基地向けの人員機材を搭載し、再度ショートランド泊地を出撃した[111]。
10月1日の時点で、第27駆逐隊は外南洋部隊の麾下にあり[112]、夕暮はR方面航空部隊に所属していた[113]。10月9日の兵力部署変更(12日午前零時発令)により、夕暮は増援部隊から除かれている[114]。10月中旬以降、夕暮はR方面航空部隊としてショートランド泊地、レカタ基地、ファラ島方面で行動した[115]。 南太平洋海戦後の兵力部署変更により、夕暮は外南洋部隊増援部隊に復帰した[116][117]。
10月31日夜、甲増援隊指揮官(第四水雷戦隊司令官高間完少将)の指揮下、第27駆逐隊は甲増援隊に所属してショートランド泊地を出撃する[118][注釈 20]。11月2日夜、警戒隊(朝雲、時雨)の哨戒下でガ島タサファロング泊地に突入し、輸送任務を終えて3日1525ショートランド泊地に帰投した[119][注釈 21]。
11月4日2330、第27駆逐隊をふくむ甲増援隊[注釈 22]はショートランド泊地を出撃した[120]。他に第三水雷戦隊司令官直率の乙増援隊も出動した[120]。空襲や魚雷艇の攻撃を受けたが被害はなく、両部隊とも5日夜のガ島輸送に成功し、6日朝ショートランド泊地に帰投した[121]。この任務後、外南洋部隊増援部隊指揮官の職務は第三水雷戦隊司令官橋本信太郎から第二水雷戦隊司令官田中頼三少将に引き継がれた[121]。三水戦司令官は軽巡川内と三水戦各艦を率いてトラック泊地に帰投した[121]。
田中少将の指揮下で増援部隊の編成がかわり、第四水雷戦隊は乙増援隊となった[122]。11月7日22300、第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐の指揮下、夕暮を含む駆逐艦複数隻[注釈 23]はショートランド泊地を出撃する[122]。8日深夜、ガ島揚陸地点で魚雷艇に邀撃されたが深刻な被害はなかった[123]。輸送任務を終え、9日0925ショートランド泊地に帰投した[123]。
11月8日、前進部隊指揮官(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)は第十一戦隊(司令官阿部弘毅少将)の戦艦比叡と霧島を基幹とする挺身攻撃隊を編成し、第27駆逐隊も加わった(海戦に到る経緯と経過詳細は第三次ソロモン海戦を参照)[124][注釈 24]。第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)はガダルカナル島とラッセル諸島間の警戒を担当した[125]。12日夜に挺身攻撃隊がガダルカナル島に突入し、11月13日未明に第三次ソロモン海戦の第一夜戦が勃発した[126]。 戦闘後、第十戦隊司令官木村進少将(旗艦「長良」)は第四水雷戦隊に対し「霧島を護衛して北方に避退せよ」と下令した[127]。第27駆逐隊は霧島に合流し、護衛を開始した[127]。つづいて第27駆逐隊と秋月型駆逐艦照月は比叡救援を命じられた[127]。午前4時、第27駆逐隊は反転南下し、舵故障のためサボ島周辺を航行中の比叡救援にむかった[127]。 まず駆逐艦雪風(第16駆逐隊)が比叡に合流し、続いて第27駆逐隊と照月も合流した[128]。第十一戦隊司令官は比叡から雪風に移乗した[128]。日中になり空襲を受け、魚雷と爆弾命中により比叡の損害は増加、舵復旧の目途もたたなかった[129]。昼過ぎ、第十一戦隊司令官は「比叡処分ノ為各艦魚雷二本ヲ準備シオケ」と下令する[130]。比叡は放棄され、乗組員は護衛5隻(雪風、照月、時雨、白露、夕暮)に移乗した[130]。雷撃処分直前に連合艦隊より「処分スルナ」の命令があり(1440発信)、各艦は比叡処分をやめて戦場を離脱した[131]。夜になって現場に引き返すと比叡の艦影はなく、沈没したものと認められた[131]。 第三次ソロモン海戦第二夜戦(十四日の夜戦)に参加した照月を除き、各艦はトラック泊地に帰投した。
第三次ソロモン海戦後、連合軍は東部ニューギニア方面で攻勢に出た[132]。外南洋部隊はニューギニア方面への駆逐艦輸送を開始したが損傷艦が続出し、連合艦隊は外南洋部隊に派遣する駆逐艦の数をふやす[133]。11月30日、有明と夕暮はラバウルに進出した[133]。外南洋部隊は夕暮と第4駆逐隊を増援部隊に、有明を支援隊に編入し、各艦は12月3日までにショートランド泊地に進出した[134]。 同日1130、増援部隊指揮官(第二水雷戦隊司令官田中頼三少将)は夕暮など駆逐艦10隻を率いてショートランド泊地を出撃する(第二次ドラム缶輸送)[135][注釈 25]。空襲で巻波が小破、ドラム缶1500個を投入したが、ガ島陸軍が回収したのは310個であったという[135]。
12月9日以降、天霧と夕暮はレカタ輸送を実施した[136]。 12月26日1700、第17駆逐隊司令は夕暮以下駆逐艦6隻はラバウルを出撃する[137][注釈 26]。ショートランド泊地に立ち寄ったあと、27日深夜にニュージョージア諸島バングヌ島のウイックハム (Wickham) に兵員と物資を輸送した[137]。28日0630、輸送部隊はショートランド泊地に戻った[137]。 この輸送作戦を終えたあと、連合艦隊は外南洋部隊に編入中の各艦(電、磯波、有明、夕暮)の前進部隊復帰を命じた[138]。
護衛任務
[編集]1943年(昭和18年)1月1日、夕暮は陸軍輸送船団を護衛してラバウルを出発する[139][140]。2日、護衛中の天城山丸が被雷した[141]。5日トラック泊地に到着した[140][142]。 1月7日、駆逐艦複数隻[注釈 27]は、戦艦陸奥、空母瑞鶴、重巡鈴谷を護衛してトラック泊地を出発した[138]。途中で横須賀に向かう陸奥隊とわかれ[144]、内海西部に到着した[140]。
1月30日、夕暮と磯波は陸軍第41師団主力を中国大陸沿岸の青島から東部ニューギニア・ウェワクへ輸送する丙号輸送部隊に編入された[145](電令作第469号)[146]。夕暮は丙三号輸送の第四輸送隊の輸送船(壽山丸、新京丸、新玉丸)を護衛することになった[147]。夕暮は佐世保からパラオに進出、2月14日にパラオで合同した[147]。 同日、外南洋部隊は隷下駆逐艦を丙号輸送部隊の護衛に増強した[注釈 28]。第四輸送隊には駆逐艦皐月と文月が加えられた[150]。22日、第四輸送隊(壽山丸、新京丸、新玉丸、護衛艦艇)はパラオを出発、26日ウェワクに到着した[150]。夕暮は27日に丙号輸送部隊から除かれ、ウェワクで船団の上空護衛を行った空母瑞鳳の航空隊基地員を収容してトラック泊地へ向かった[151][152]。
3月8日、駆逐艦2隻(夕暮、萩風)は空母冲鷹を護衛してトラックを出発した[153][注釈 29]。横須賀到着後、夕暮と萩風は戦艦金剛の内海西部回航を護衛した[155]。 3月22日、夕暮以下駆逐艦4隻[注釈 30]は、第二航空戦隊(隼鷹、飛鷹)[157]と第八戦隊(利根、筑摩)を護衛して内地を出発した[158]。27日、艦隊はトラックに到着した[159]。
1943年4月8日、トラック西方30浬で「厚生丸」が被雷し、「夕暮」と軽巡洋艦「長良」がトラックから救援に向かった[160]。「厚生丸」は「長良」に曳航されてトラックへ向かったが、浸水により沈没した[161]。
13日、涼月(第61駆逐隊)と船団護衛に出動したが、夕暮は14日夜にスコールの中で輸送船武庫丸と衝突する[162][163]。帰投後に工作艦明石で修理を行った[162]。翌日には任務に復帰した[注釈 31]。
5月8日、夕暮など駆逐艦数隻[注釈 32]は、戦艦大和、空母雲鷹と冲鷹、第五戦隊(妙高、羽黒)を護衛してトラック泊地を出発、日本近海で呉にむかう大和隊と、横須賀に向かう空母隊に別れた[165]。その後、時雨と有明も戦艦武蔵(山本元帥の遺骨安置中)他を護衛して内地に帰投した[166][167]。一連の経過により、第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)が内地に揃った[注釈 33]。連合艦隊はアッツ島の戦いに備えたが、出撃を見合わせるうちに同島守備隊は玉砕した[168]。
6月10日、有明と夕暮はトラック泊地に向かう第二航空戦隊の空母飛鷹を護衛して横須賀を出港した[169]。同日1853、アメリカ軍潜水艦トリガー (USS Trigger, SS-237) の雷撃で飛鷹が大破した[170]。飛鷹は被雷後に敵潜水艦と誤認して夕暮を高角砲と機銃で射ち、夕暮は第3砲塔附近に被弾して乗員2名が戦死、5名が負傷した[注釈 34]。連合艦隊の命令により横須賀にいた軽巡洋艦五十鈴(第十四戦隊)が出動する[170]。飛鷹は五十鈴に曳航され、横須賀に帰投した[172]。 飛鷹の代艦として、第五十航空戦隊に所属していた空母龍鳳[173]が第二航空戦隊に編入された[174]。
6月16日、第三戦隊司令官栗田健男中将の指揮下[175]、第三戦隊(金剛、榛名)、第七戦隊(熊野、鈴谷)、空母3隻(龍鳳、大鷹、冲鷹)、軽巡五十鈴[176]、第27駆逐隊を含む駆逐艦複数隻[注釈 35]は横須賀を出港、21日トラック泊地に到着した[174][175]。
沈没
[編集]1943年(昭和18年)6月30日、連合軍はカートホイール作戦によりレンドバ島およびニュージョージア島に上陸を敢行[177]、ニュージョージア島の戦いがはじまる[178]。 7月2日、夕暮(第27駆逐隊)と清波(第31駆逐隊)は油槽船玄洋丸を護衛してトラックを出発、7月5日ラバウルに到着した[179]。 連合艦隊は7月7日付で第二水雷戦隊(司令官伊崎俊二少将)を外南洋部隊に編入し、当面の増援輸送に従事させた[180]。
7月9日、外南洋部隊指揮官鮫島具重海軍中将(第八艦隊司令長官)は将旗を鳥海に掲げ、水上部隊の全力出撃を敢行した[14]。ニュージョージア方面出撃部隊の軍隊区分は、主隊(鳥海、川内)と警戒隊(雪風、夕暮、谷風、浜風)、第22駆逐隊司令指揮下のコロンバンガラ輸送部隊(皐月、三日月、松風、夕凪)であった[181]。同日1700、外南洋部隊はブーゲンビル島ブインを出撃した[181]。輸送部隊はコロンバンガラ輸送に成功したが、主隊および警戒隊は連合軍水上部隊と遭遇せず、対地砲撃をおこなったあと7月10日0700までにブインへ帰投した[181]。
つづいて外南洋部隊はコロンバンガラ島への緊急輸送を行うことになった[181]。本輸送作戦は、第二水雷戦隊司令官伊崎俊二少将が旗艦「神通」より指揮をとる[181]。7月12日未明、警戒隊の軽巡神通(第二水雷戦隊旗艦)と駆逐艦5隻(清波、雪風、浜風、夕暮、三日月)はラバウルを出撃した[181]。輸送隊の駆逐艦4隻[注釈 36]は同日1840、ブインを出撃した[181]。日本軍の輸送を察知した連合国軍艦隊(軽巡3隻、駆逐艦10隻)はクラ湾に展開し、日本軍輸送部隊を迎え撃った[182]。
7月12日午後11時頃に両軍が遭遇し、コロンバンガラ島沖海戦が生起した[180](海戦の経過詳細は当該記事を参照)。海戦は日本側が勝利し、輸送作戦も成功した[183]。だが旗艦神通が沈没し、第二水雷戦隊司令部は全滅した[184]。 連合軍水上部隊を完全に撃滅するため、日本側は第七戦隊司令官西村祥治少将(旗艦「熊野」)を指揮官とする夜戦部隊を編成した[183]。第七戦隊は7月11日にラバウルに到着したばかりである[183]。夜戦部隊の編成は、西村少将直率の主隊(熊野、鈴谷、鳥海)、第三水雷戦隊司令官伊集院松治大佐(7月10日、ラバウル着任)[183]が指揮する水雷戦隊、第30駆逐隊司令が指揮する輸送隊であった[185]。 7月16日夜、夜戦部隊はラバウルを出撃した(外南洋部隊電令作第379号)[186]。17日朝、連合軍はブインに大規模空襲を敢行、ショートランド泊地にいた駆逐艦初雪が沈没し、損傷艦多数を出した[183]。南東方面部隊の命令により、夜戦部隊はラバウルに引き返した[185]。ブイン空襲の被害により、夜戦部隊の編成は一部変更された[186]。
7月18日夜、熊野を旗艦とする夜戦部隊は、主隊(熊野、鈴谷、鳥海)と水雷戦隊(川内、雪風、浜風、夕暮、清波)という区分で再びラバウルを出撃した[186]。19日夕刻、ブインからきた輸送部隊(三日月、水無月、松風)と合流する[185]。輸送部隊は7月20日未明、コロンバンガラ島輸送に成功した[185]。 一方、夜戦部隊はクラ湾を機宜行動したが連合軍水上部隊は出現しなかった[185]。19日午後11時、クラ湾北方で反転し、帰途につく[185]。夜戦部隊は、満月の月明下でPBYカタリナ飛行艇に捕捉されていた[187]。7月20日の日付変更直後、米軍機が急襲した。00時34分、TBFアベンジャー雷撃機の攻撃により夕暮は轟沈した[186]。つづいて旗艦熊野も艦後部に被弾して舵故障となった[186]。清波が反転して夕暮の救援に向かったが「0110夕暮乗員救助中」の通信を最後に行方不明となった[186]。清波も、夜間空襲により撃沈されたのである[188]。8月5日に救助された清波乗組みの西川水兵長によると、清波は夕暮の乗員約20名を救助した後、2度の夜間爆撃を受けて沈没した[189]。60名ほどが漂流していたが、孤島に漂着した西川以外は行方不明になったという[189]。こうして、夕暮の乗組員は全員戦死した。
7月28日、駆逐艦三日月[190]と有明[25]はニューブリテン島ツルブ輸送作戦中に空襲により撃沈された。 夕暮と有明は10月15日、第27駆逐隊[191][注釈 37]、 初春型駆逐艦[195]、 帝国駆逐艦籍から除籍された[196]。
艦名は海上自衛隊のありあけ型護衛艦ゆうぐれに引き継がれた[197]。
歴代艦長
[編集]※『艦長たちの軍艦史』300-301頁による。
艤装員長
[編集]艦長
[編集]- 安武史郎 少佐:1935年1月25日[199] - 1935年11月15日[200]
- 柳川正男 少佐:1935年11月15日[200] - 1937年12月1日[201]
- 一門善記 少佐:1937年12月1日[201] - 1938年1月12日[202]
- 沢村成二 少佐:1938年1月12日[202] - 1938年12月15日[203]
- (兼)市原千代次 少佐:1938年12月15日[203] - 1939年2月20日[204]
- 萩尾力 少佐:1939年2月20日[204] - 1939年11月15日[205]
- 藤田勇 少佐:1939年11月15日[206] - 1940年10月15日[32]
- 加茂喜代之 少佐/中佐:1940年10月15日[32] - 1943年7月20日戦死(同日付、海軍大佐)[207]
参考文献
[編集]- 池田清『重巡摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X。
- 遠藤昭、原進『駆逐艦戦隊』朝日ソノラマ、1994年7月。ISBN 4-257-17283-5。
- 生出寿『烈将 山口多聞』徳間書店、1989年8月。ISBN 4-19-598853-5。
- 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 海上修羅の指揮官新装版』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。ISBN 9784-7698-2143-4。
- 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。ISBN 978-4-286-14246-3。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。
- 木俣滋郎『日本戦艦戦史』図書出版社、1983年
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年3月。
- 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。
- 木俣滋郎「8.軽巡洋艦『神通』/13.重巡洋艦『熊野』」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社〈光人社NF文庫〉、2013年6月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-2786-3。
- 木俣滋郎『潜水艦攻撃 日本軍が撃沈破した連合軍潜水艦』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2016年5月(原著1989年)。ISBN 978-4-7698-2949-2。
- 駆逐艦雪風手記編集委員会『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。
- 古村啓蔵ほか『重巡十八隻 軍縮条約が生んだ最先端テクノロジーの結晶』潮書房光人社、2015年4月。ISBN 978-4-7698-1590-7。
- 当時熊野罐部指揮官・海軍大尉本城誠治『機関員が体験した「熊野」ソロモンの死闘 甲板上の様子はまるきり不明、不安と焦燥の中で艦底に戦う夜戦記録』
- 重本俊一(海軍少尉、親潮乗組)『落日の日本艦隊 体験的連合艦隊始末記』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2014年7月。ISBN 978-4-7698-2841-9。
- 重本俊一ほか『陽炎型駆逐艦 水雷戦隊の中核となった精鋭たちの実力と奮戦』潮書房光人社、2014年10月。ISBN 978-4-7698-1577-8。
- (62-75頁)戦史研究家山内隆『駆逐艦の発達五十年 生い立ちから防空直衛艦や戦時急造艦をうむにいたるまでの進歩変遷の歩み』
- (76-97頁)元海軍造船官・海軍技術大佐牧野茂『日本駆逐艦造船論 造船技術界の至宝が自ら手がけた駆逐艦の長所短所を明かす建造秘録』
- (255-342頁)戦史研究家伊達久『日本海軍駆逐艦戦歴一覧 太平洋戦争時、全一七八隻の航跡と最後』
- 須藤幸助『駆逐艦「五月雨」出撃す ソロモン海の火柱』光人社〈光人社NF文庫〉、2010年1月(原著1956年)。ISBN 978-4-7698-2630-9。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第五巻 昭和十七年十月〜昭和十八年二月十一日』中央公論社、1996年11月。ISBN 4-12-403396-6。
- 高松宮宣仁親王、嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第六巻 昭和十八年二月十二日〜九月』中央公論社、1997年3月。ISBN 4-12-403396-6。
- 外山三郎『図説 太平洋海戦史 第2巻 写真と図説で見る日米戦争』光人社、1995年7月。ISBN 4-7698-0710-4。
- 外山三郎『図説 太平洋海戦史 第3巻 写真と図説で見る日米戦争』光人社、1995年9月。ISBN 4-7698-0711-2。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ 強運駆逐艦栄光の生涯』光人社〈光人社NF文庫新装版〉、2004年。ISBN 978-4-7698-2027-7。
- C・W・ニミッツ、E・B・ポッター『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。
- 福地, 周夫『空母翔鶴海戦記』出版共同社、1962年6月。
- 淵田美津雄、奥宮正武『機動部隊』朝日ソノラマ〈新装版戦記文庫〉、1992年12月。
- 橋本廣『機動部隊の栄光 艦隊司令部信号員の太平洋海戦記』光人社、2001年。ISBN 4-7698-1028-8。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ハワイ作戦』 第10巻、朝雲新聞社、1967年12月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<1> 昭和17年5月まで』 第38巻、朝雲新聞社、1970年10月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 ミッドウェー海戦』 第43巻、朝雲新聞社、1971年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<1> ガ島奪還作戦開始まで』 第49巻、朝雲新聞社、1971年9月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<3> ガ島撤収後』 第96巻、朝雲新聞社、1976年8月。
- 雑誌「丸」編集部『写真 太平洋戦争<第三巻> ドーリットル空襲/珊瑚海海戦/ミッドウェー海戦』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年2月。ISBN 4-7698-2073-9。
- 雑誌「丸」編集部『ハンディ版 日本海軍艦艇写真集17 駆逐艦 初春型・白露型・朝潮型・陽炎型・夕雲型・島風』光人社、1997年。
- 歴史群像編集部編『水雷戦隊II 陽炎型駆逐艦 究極の艦隊型駆逐艦が辿った栄光と悲劇の航跡』 第19巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、1998年8月。ISBN 4-05-601918-5。
- (85-94頁)向井学「艦隊型駆逐艦全131隻行動データ」
- (143-158頁)戦闘ドキュメント 日本駆逐艦の奮戦 PATR1〔水雷戦隊かく戦えり〕/PART2〔ルンガ沖夜戦〕
- 歴史群像編集部編『睦月型駆逐艦 真実の艦艇史4 ― 謎多き艦隊型駆逐艦の実相』 第64巻、学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ〉、2008年5月。ISBN 978-4-05-605091-2。
- 国立国会図書館デジタルライブラリー - 国立国会図書館
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻4(1939年印刷)』海軍大臣官房、1939年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻8(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍大臣官房『海軍制度沿革. 巻11(1940年印刷)』海軍大臣官房、1940年 。
- 海軍有終会編『幕末以降帝国軍艦写真と史実』海軍有終会、1935年11月。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊軍艦集. 1935年版』海軍研究社、1935年5月。
- 海軍研究社編輯部 編『ポケット海軍年鑑 : 日英米仏伊独軍艦集. 1937,1940年版』海軍研究社、1937年2月。
- 海軍研究社編輯部 編『日本軍艦集 2600年版』海軍研究社、1940年7月。
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- 『昭和16年〜昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。
- 『昭和7年達完/12月(5)』。Ref.C12070095800。
- 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。Ref.C12070181100。
- 『昭和18年9〜10月 内令4巻/昭和18年10月(3)』。Ref.C12070181300。
- 『昭和18年9〜10月 内令4巻/昭和18年10月(4)』。Ref.C12070181400。
- 『昭和18年11〜12月 内令 5巻/昭和18年11月(6)』。Ref.C12070182500。
- 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13072003500。
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第2類編制』。Ref.C13071973700。
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻1追録/第6類機密保護』。Ref.C13071974300。
- 『昭和12年12月1日現在10版内令提要追録第3号原稿/ 巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13071975200。
- 『昭和13年12月25日現在10版内令提要追録第4号原稿/ 巻1追録/第2類 編制(1)』。Ref.C13071976600。
- 『第2634号11.5.7駆逐艦有明、夕暮烹炊室煙突改造の件』。Ref.C05034915400。
- 『支那事変 第8回功績概見表綴 駆逐隊 潜水隊 水雷隊 掃海隊 海軍武功調査/27駆機密第35号の199 1.第27駆逐隊支那事変第8回功績概見表 自昭和15年4月29日 至昭和15年11月15日 昭和15年12月2日』。Ref.C14120971400。
- 『支那事変 第9回功績概見表綴 海軍武功調査/支那事変第9回駆逐隊功績概見表/27駆機密第35号の98 1.第27駆逐隊支那事変第9回功績概見表 自昭和15年11月15日 至昭和16年5月31日 昭和16年6月20日』。Ref.C14120980500。
- 『支那事変 第10回功績概見表綴/支那事変駆逐隊第10回功績概見表/第27駆逐隊支那事変第10回功績概見表』。Ref.C14120989300。
- 『昭和17年1月1日〜昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030079500。
- 『昭和17年1月1日〜昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030079600。
- 『昭和17年1月1日〜昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030079700。
- 『昭和17年1月1日〜昭和17年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030079800。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030080200。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030080300。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030080400。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030080500。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030080600。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030080700。
- 『昭和17年5月29日〜昭和17年7月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030081500。
- 『昭和17年3月〜昭和17年5月 軍艦高雄行動関係書類綴(1)』。Ref.C08030774900。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年3月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030334200。
- 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030115400。
- 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030115500。
- 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030115600。
- 『昭和17年10月31日~昭和17年11月18日 第4水雷戦隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030115700。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/1.経過』。Ref.C13120037200。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/3.令達報告等(1)』。Ref.C13120037400。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/3.令達報告等(2)』。Ref.C13120037500。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/4.参考』。Ref.C13120037600。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年4月/別図』。Ref.C13120037800。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/1.経過』。Ref.C13120038500。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(1)』。Ref.C13120038700。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(2)』。Ref.C13120038800。
- 『第5航空戦隊戦時日誌(作戦及一般之部)昭和17年5月/3.令達報告等(3)』。Ref.C13120038900。
- 『昭和17年3月11日〜昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030043200。
- 『昭和17年3月11日〜昭和17年5月17日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030043300。
- 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(1)』。Ref.C08030729000。
- 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(2)』。Ref.C08030729100。
- 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(3)』。Ref.C08030729200。
- 『昭和17年5月1日〜昭和17年5月17日 南洋部隊MO機動部隊戦闘詳報(4)』。Ref.C08030729300。
- 『昭和17年3月1日〜昭和17年5月31日 第二水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030094600。
- 『昭和16年12月1日〜昭和17年6月31日 呉防備戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030366100。
- 『昭和17年6月1日〜昭和19年6月30日 あ号作戦戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030040100。
表題は「あ号作戦」だが、ミッドウェー海戦時の第一水雷戦隊・第二水雷戦隊日誌、第三水雷戦隊戦時日誌を収録 - 『昭和16年12月1日〜昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030049400。
- 『昭和16年12月1日〜昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030049500。
- 『昭和16年12月1日〜昭和18年3月15日 第9戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030049600。
- 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030113800。
- 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030113900。
- 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030114000。
- 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030114100。
- 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030114200。
- 『昭和17年10月1日〜昭和17年10月31日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030114300。
- 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030114700。
- 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030114800。
- 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030114900。
- 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030115000。
- 『昭和17年11月1日〜昭和17年11月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030115100。
- 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030022500。
- 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030022600。
- 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030022700。
- 『昭和17年9月14日〜昭和18年8月15日 第8艦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030022800。
- 『昭和18年1月1日〜昭和18年1月31日 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030769100。
- 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(1)』。Ref.C08030099500。
- 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(2)』。Ref.C08030099600。
- 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(2)』。Ref.C08030099600。
- 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(3)』。Ref.C08030099700。
- 『昭和17年11月29日〜昭和17年12月28日 外南洋部隊増援部隊戦闘詳報戦時日記(4)』。Ref.C08030099800。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030116000。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030116100。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030116200。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030116300。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030116400。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)』。Ref.C08030116500。
- 『昭和18年1月1日〜昭和18年1月31日 佐世保鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030341300。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030083300。
- 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030100500。
- 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030100600。
- 『昭和18年1月1日〜昭和18年5月31日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030100700。
- 『昭和17年9月11日〜昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030041800。
- 『昭和17年9月11日〜昭和18年11月30日 第3戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030041900。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年2月28日 第1水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030083300。
- 『昭和17年4月1日〜昭和18年8月31日 第7戦隊戦時日誌戦闘詳報(7)』。Ref.C08030047800。
- 『昭和18年4月1日〜昭和18年11月15日 第14戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030052200。
- 『昭和17年12月1日〜昭和18年11月2日 第5戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030044800。
- 『昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030116900。
- 『昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030117000。
- 『昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030117100。
- 『昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030117200。
- 『昭和18年5月1日〜昭和18年7月19日 第4水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030117300。
- 『昭和18年7月1日〜昭和18年12月2日 第3水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030105800。
- 『昭和18年6月14日〜昭和18年11月11日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030101000。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 1935年4月1日、第9駆逐隊として発足[9]。1938年12月15日、第27駆逐隊と改称した[10]。
- ^ 第七戦隊司令官西村祥治少将を指揮官とする夜戦部隊[14]。同部隊の編成は、重巡洋艦熊野〈七戦隊旗艦〉、鈴谷、鳥海、第三水雷戦隊(軽巡川内、駆逐艦雪風、浜風、夕暮、清波)。
- ^ 有明は川崎重工業神戸造船所で建造され、1935年3月25日に竣工した[25]。
- ^ 白露は佐世保海軍工廠で建造され、1936年8月20日に竣工した[27]。
- ^ 時雨は浦賀船渠で建造され、1936年9月7日に竣工した[28]。
- ^ 昭和15年度艦隊編制における第一水雷戦隊は、軽巡洋艦阿武隈、第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨、五月雨)、第24駆逐隊(海風、山風、江風、涼風)、第27駆逐隊(有明、夕暮、白露、時雨)である。
- ^ 阿武隈と第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)は南雲機動部隊として真珠湾攻撃に参加、第6駆逐隊(暁、響、雷、電)は南方部隊に所属して南方作戦に参加[36]。
- ^ 戦艦長門、陸奥、日向、伊勢、山城、扶桑。空母鳳翔、瑞鳳など[37]。
- ^ 12月23日夕刻、南雲機動部隊本隊は桂島泊地に到着した[43]。
- ^ 第八戦隊司令官阿部弘毅少将指揮下の第八戦隊(利根、筑摩)、二航戦(蒼龍、飛龍)、第17駆逐隊の駆逐艦2隻(谷風、浦風)[44]。
- ^ 機動部隊指揮官は第一航空艦隊司令長官南雲忠一中将。警戒隊指揮官は第一水雷戦隊司令官森仙太郎少将、旗艦阿武隈。第17駆逐隊(谷風、浦風、浜風、磯風)、第18駆逐隊第1小隊(不知火、霞)、第4駆逐隊第2小隊(萩風、舞風)、第27駆逐隊第2小隊(有明、夕暮)、駆逐艦秋雲、第15駆逐隊第1小隊(3月6日から11日まで)[54]。
- ^ 第五戦隊所属の那智は、北方作戦のため別行動。南洋部隊には編入されていない。
- ^ MO機動部隊の指揮官は先任の第五戦隊司令官であり、第五航空戦隊司令官原忠一少将ではない。ただし航空戦に関しては、協議の結果、五航戦が主導することになった[60]。なお5月1日付で高木少将は中将に進級した[61]。
- ^ 第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)、第7駆逐隊(潮、曙)[62]。第7駆逐隊所属の駆逐艦漣はMO攻略部隊の主隊(指揮官五藤存知第六戦隊司令官)の指揮下で空母祥鳳を護衛し、別行動[62]。
- ^ 当初、翔鶴は横須賀で修理する予定だったが、同地では潜水母艦大鯨の空母改造工事に追われており、5月9日0950付電令作第141号[81]により呉海軍工廠での修理に変更された。
- ^ 第27駆逐隊のうち3隻(白露、時雨、夕暮)は警戒部隊に所属、有明は主隊の第一補給隊として行動した[87]。警戒部隊は第二戦隊(伊勢、日向、山城、扶桑)、第九戦隊司令官岸福治少将を指揮官とする警戒隊(第九戦隊〈大井、北上〉、第24駆逐隊〈海風、江風〉、第27駆逐隊〈夕暮、白露、時雨〉、第20駆逐隊〈天霧、朝霧、夕霧、白雲〉)、第二補給隊(駆逐艦山風、油槽艦さくらめんて丸、油槽艦東亞丸)で編成されていた[88]。
- ^ 第24駆逐隊の駆逐艦涼風は、蘭印作戦で潜水艦に雷撃され損傷、修理中のため内地に待機しており、作戦不参加[89]。
- ^ 四水戦の第2駆逐隊は、インド洋方面通商破壊作戦「B作戦」のためマレー半島所在、別行動。
- ^ 第11駆逐隊(吹雪、白雪)、第19駆逐隊第1小隊(敷波、浦波)、天霧、陽炎、夕立、夕暮。
- ^ 軽巡天龍、駆逐艦朝雲(四水戦旗艦)、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)、第2駆逐隊(村雨、夕立、春雨)、第6駆逐隊(暁、雷)、第11駆逐隊(白雪)[118]。
- ^ この作戦では、ほかに第一攻撃隊(旗艦「衣笠」)、乙増援隊もガ島へ出動している[119]。
- ^ 朝雲(四水戦旗艦)、第2駆逐隊(村雨、春雨、夕立)、第27駆逐隊(時雨、白露、有明、夕暮)、第8駆逐隊(朝潮、満潮)[120]。
- ^ 朝雲(旗艦)、睦月型駆逐艦(望月)、第2駆逐隊(村雨、夕立)、第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)、第8駆逐隊(朝潮、満潮)[120]。
- ^ 挺身攻撃隊(指揮官阿部弘毅第十一戦隊司令官)は、本隊(射撃隊〈比叡、霧島〉、第十戦隊〈長良、雪風、天津風、照月、暁、雷、電〉)、警戒隊(朝雲〈四水戦旗艦〉、村雨、五月雨、夕立、春雨、時雨、白露、夕暮)であった[124]。
- ^ 第31駆逐隊(長波〈田中少将旗艦〉、巻波)、第15駆逐隊(親潮、黒潮、陽炎)、第24駆逐隊(江風、涼風)、第4駆逐隊(嵐、野分)および夕暮という編成であった[135]。
- ^ 第17駆逐隊(谷風、浦風)、荒潮、磯波、電、夕暮[137]。
- ^ 駆逐艦磯波、電、天霧、有明、夕暮、朝潮[143]。
- ^ 外南洋部隊の指揮下にあった大部分の駆逐艦で、ケ号作戦(ガダルカナル島撤収作戦)を終えたばかりであった[148]。第10駆逐隊(秋雲、夕雲、風雲)、第9駆逐隊(朝雲)、第2駆逐隊(五月雨)[149]、第22駆逐隊(文月、長月、皐月)。
- ^ 航海中の9日、第27駆逐隊司令に原為一中佐が就任した[154]。
- ^ 夕暮、陽炎、初月、涼月[156]。
- ^ 第四水雷戦隊戦時日誌(6)[162]〔 夕暮ハ11日AdB対潜掃蕩隊ニ編入セラレ「トラック」周辺ノ対潜掃蕩作戦ニ従事21日同作戦終結ト共ニ右編制ヲ解カレ2dg(五月雨)ト共ニ原編制ニ復帰ス 〕、同部隊戦時日誌 p.13〔 8日0833(将旗)2F
- ^ 潮、夕暮、長波、五月雨[164]。
- ^ 第27駆逐隊の僚艦白露は1942年11月末に空襲を受け大破、損傷を佐世保海軍工廠で修理中のため[12]、行動できず。
- ^ 〔 ○「夕暮」(一一-一五三〇)[171] 十日夕刻、「飛鷹」遭難後、爆雷攻撃終了。反転中、一九三七、距離約3kmニテ「飛鷹」ヨリ敵潜水艦ト誤認、高角砲及機銃射撃ヲ受ケ、三番砲後方ニテ機銃弾ヲ浴ビ爆雷運搬中ノ下士官兵、戦死二名、軽傷五名及三番砲楯等ニ貫通孔数ヶ所アリ。 〕
- ^ 第27駆逐隊(時雨、有明、夕暮)、第7駆逐隊(潮、曙、漣)、第16駆逐隊(雪風)、第17駆逐隊(浜風、谷風)、第24駆逐隊(涼風)、夕雲型駆逐艦清波、秋月型駆逐艦新月[175]。
- ^ 睦月型駆逐艦(皐月、水無月)、神風型駆逐艦(夕凪、松風)[181]。
- ^ 第27駆逐隊は、解隊された第2駆逐隊[192]より駆逐艦五月雨[193]と春雨[194]を編入し、定数4隻を回復した。
出典
[編集]- ^ a b c #達昭和7年12月(5) pp.6〔 達第百七十五號 艦艇製造費ヲ以テ昭和七年度ニ於テ建造ニ着手ノ驅逐艦三隻潜水艦三隻水雷艇二隻掃海艇二隻敷設艦二隻ニ左ノ通命名ス 昭和七年十二月十日 海軍大臣岡田啓介|驅逐艦 浦賀船渠株式會社ニ於テ建造 初霜(ハツシモ)|株式會社川崎造船所ニ於テ建造 有明(アリアケ)|舞鶴要港工作部ニ於テ建造 夕暮(ユフグレ)|(略)〕
- ^ a b c d e #艦船要目公表範囲(昭和12年12月1日) p.4〔 夕暮|一等駆逐艦|(艦要目略)|舞鶴工作部|8-4-9|9-5-6|10-3-30|(艦装備略) 〕
- ^ a b 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 291a夕暮(ゆうぐれ)
- ^ a b c 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 90a夕暮(ゆうぐれ)
- ^ #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日) p.8〔 驅逐艦|一等|初春型|初春、子日、若葉、初霜、有明、夕暮 〕
- ^ #日本軍艦集2600年版 p.42〔 一等驅逐艦 夕暮(ゆふぐれ) 基準排水量1,368噸 長さ102.96米、幅9.94米、平均吃水2.67米、速力34節 備砲12.7糎砲5門 魚雷發射管6門 起工昭和8年4月9日、進水昭和9年5月6日、竣工昭和10年3月30日、建造所舞鶴海軍工廠―若葉と同型。初春、子日昭和8年9月30日、初霜同9年9月27日、有明同10年3月25日夫々竣工 〕
- ^ a b #海軍制度沿革(巻8、1940) p.68〔 昭和八年十二月十五日(内令四一一)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦、一等ノ部初春型ノ項中「、有明、夕暮」ヲ削リ、同項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |有明型|有明、夕暮、白露、時雨、村雨|(以下略) 〕
- ^ a b 舞廠造機部 2014, pp. 71–73帝国海軍駆逐艦・水雷艇建造小史(9) 初の旋転補機搭載駆逐艦 ― 初春型と同改
- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939) pp.70-71〔 昭九.一一.一五(内令四七七)|横須賀鎮守府|第二驅逐隊|峯風、沖風|昭和九、一一、一五(内令四七七)驅逐隊編制本表ノ通改訂セラル/昭和一〇、四、一(内令一二二)第十八驅逐隊ノ項ヲ削ル 第八驅逐隊ノ次ニ第九驅逐隊(有明、夕暮)ヲ加フ/昭和一〇、四、一〇(内令一四六)第二驅逐隊ノ項ヲ削ル 〕
- ^ a b #駆逐隊編制(昭和13年12月5日) p.4〔 驅逐隊編制 〕
- ^ a b 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 290有明(ありあけ)
- ^ a b 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 291b白露(しらつゆ)
- ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 292時雨(しぐれ)
- ^ a b 戦史叢書96 1976, pp. 245a-249水上部隊の作戦
- ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 318清波(きよなみ)
- ^ 撃沈戦記 2013, p. 173米軍機の反跳爆撃
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.210〔 ◎驅逐艦初霜外二隻伊號第六潜水艦外二隻水雷艇友鶴外一隻命名ノ件』
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)p.68『昭和七年十二月十日(内令四一二)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 驅逐艦、一等ノ部初春型ノ項中「若葉」ノ下ニ「、初霜、有明、夕暮」ヲ加フ(以下略) 〕
- ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 86–87兵装第一主義の犠牲となった初春型
- ^ 「昭和9年5月8日(火)海軍公報第2163号 p.31」 アジア歴史資料センター Ref.C12070343200 〔 ○驅逐艦進水 舞鶴要港部工作部ニ於テ建造ノ驅逐艦夕暮一昨六日午前十一時進水セリ 〕
- ^ 舞廠造機部, 2014 & 二枚舵装備の駆逐艦, pp. 92–94.
- ^ a b 舞廠造機部 2014, p. 94.
- ^ 舞廠造機部 2014, pp. 97–99ボイラの自動制御で苦労
- ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) p.69〔 昭和九年十一月十九日(内令四八七)艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 航空母艦ノ項中「龍驤」ノ下ニ「、蒼龍」ヲ加ヘ、水上機母艦ノ項中「神威」ノ下ニ「、千歳」ヲ加フ 驅逐艦一等ノ部中初春型ノ項中「初霜」ノ下ニ「、有明、夕暮」ヲ加ヘ、有明型ノ項ヲ左ノ如ク改ム |白露型|白露、時雨、村雨、夕立、春雨、五月雨、海風 〕
- ^ a b c d 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 90b有明(ありあけ)
- ^ a b #海軍制度沿革(巻4、1939) pp.47-48〔 昭九.一一.一五(内令四七六)|聯合艦隊|第二艦隊|第四戰隊 高雄愛宕摩耶鳥海/第五戰隊/第六戰隊 古鷹衣笠青葉/第二水雷戰隊 神通、第六 第十 第十九 第二十驅逐隊/第二潜水戰隊 由良長鯨 第十八 第二十八 第二十九潜水隊/第二航空戰隊 赤城、第二驅逐隊 〕〔 昭一〇.一一.一五(内令四五八)|聯合艦隊|第一艦隊|第一戰隊 長門扶桑山城榛名/第三戰隊/第八戰隊 神通長良川内/第一水雷戰隊 阿武隈 第九 第二十一 第三十驅逐隊/第一潜水戰隊 迅鯨 第十八 第十九 第二十八潜水隊/第一航空戰隊 鳳翔 龍驤 第五驅逐隊|(略)第二艦隊 四.一(内令一二四)第九驅逐隊(二空戰) 〕
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 90c白露(しらつゆ)
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 90d時雨(しぐれ)
- ^ #海軍制度沿革(巻4、1939) p.71〔 昭一〇.一一.一五(内令四五九)|横須賀鎮守府|第九驅逐隊|有明、夕暮|白露、時雨(一一、一一、一)|昭和一〇、一一、一五(内令四五九)驅逐隊編制本表ノ通改訂セラル 〕
- ^ 戦史叢書38 1970, pp. 73–77昭和15年度艦隊編制(抜粋)(昭和14年11月15日付)
- ^ #支那事変第8回功績27駆 p.2〔 昭和十五年九月十七日南支方面ニ向ケ佐世保發同年十月五日佐世保歸着 〕
- ^ a b c 「昭和15年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第543号 p.38,44」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079000
- ^ 戦史叢書38 1970, pp. 80–82昭和16年度艦隊編制(外戦部隊)(昭和15年11月15日付)
- ^ 戦史叢書85 1975, pp. 54–57海上作戦の開始と対ソ警戒
- ^ 戦史叢書38 1970, pp. 87–94戦時艦隊編制の改定(抜粋)(昭和16年12月10日付)
- ^ 戦史叢書10 1967, pp. 218–220聯合艦隊 戦時編制
- ^ 戦史叢書10 1967, pp. 424–427四 他部隊の機動部隊引き揚げ掩護
- ^ 戦史叢書85 1975, pp. 67a-73四 ハワイ作戦部隊の援護
- ^ 戦史叢書10 1967, p. 426.
- ^ 戦史叢書85 1975, p. 68主力部隊の収容行動
- ^ a b 戦史叢書10 1967, p. 427.
- ^ 戦史叢書10 1967, pp. 432–433.
- ^ 戦史叢書85 1975, p. 73機動部隊内海帰投
- ^ 戦史叢書85 1975, p. 67b.
- ^ a b 戦史叢書10 1967, pp. 438–439.
- ^ 戦史叢書38 1970, p. 220増援の機動部隊、呉帰投
- ^ 戦史叢書26 1969, pp. 123–124母艦航空部隊の状況
- ^ 戦史叢書26 1969, pp. 222–223機動部隊主力の南方投入発令
- ^ a b 戦史叢書26 1969, pp. 224–225作戦計画等
- ^ 烈将山口多聞 1989, p. 159.
- ^ 重巡摩耶 2002, pp. 108–110.
- ^ #S1701一水戦日誌(2) p.7〔 2月10日 第4駆逐隊2小隊第27駆逐隊2小隊ハ警戒隊ニ編入セラル 〕
- ^ 戦史叢書26 1969, p. 353.
- ^ 戦史叢書26 1969, pp. 493–494.
- ^ a b 戦史叢書26 1969, p. 495.
- ^ 戦史叢書26 1969, pp. 509–510機動部隊、チラチャップを爆砕
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 169–170南洋部隊の兵力
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 165-167聯合艦隊第二段作戦方針と兵力部署の発令
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 179-183別表第一、第六兵力部署(MO作戦終了迄)
- ^ 『戦史叢書49巻』188頁
- ^ 「昭和17年5月1日(発令5月1日付)海軍辞令公報(部内限)第851号 p.1」 アジア歴史資料センター Ref.C13072112000
- ^ a b 戦史叢書49 1971, pp. 268–269.
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 180–181(MO機動部隊)
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 187a-192MO機動部隊
- ^ a b c 戦史叢書49 1971, p. 187b.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 59–61二 ドゥリットル空襲・空襲の概要
- ^ 戦史叢書85 1975, pp. 85–86聯合艦隊の作戦指導
- ^ 戦史叢書85 1975, pp. 91–92艦艇による捜索
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 188.
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 189.
- ^ 翔鶴海戦記 1962, p. 60.
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 229–330MO主隊およびMO機動部隊の作戦
- ^ 翔鶴海戦記 1962, p. 61.
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 279.
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 296.
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 303–305八日朝の日米両機動部隊の態勢
- ^ ニミッツ 1962, pp. 56–59五月八日の戦闘
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 313–315MO機動部隊の邀撃
- ^ 戦史叢書49 1971, p. 318.
- ^ 戦史叢書49 1971, pp. 327–329五月九日の作戦
- ^ a b c 戦史叢書38 1970, p. 603.
- ^ 落日の日本艦隊 2004, pp. 80–82初の空母激突
- ^ 翔鶴海戦記 1962, p. 93.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 114–115珊瑚海海戦の被害判明
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 193.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 188–193主力部隊
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 189–192.
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 191–192警戒部隊
- ^ 『戦史叢書43巻』193頁
- ^ 戦史叢書43 1971, p. 272主力部隊進出
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 525–526MI作戦中止の指示
- ^ 戦史叢書43 1971, pp. 534–535主力の内地帰投
- ^ #S1705一水戦日誌(4) p.8〔 (イ)艦隊編制改定第二十四驅逐隊ハ第二水雷戰隊ニ第二十七驅逐隊ハ第四水雷戰隊ニ編入セラル 〕
- ^ ニミッツ 1962, pp. 108–114連合軍の上陸
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 91前進部隊(2F基幹)のトラック進出
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』127ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』127-128ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』129-130ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』130ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』135ページ
- ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 136.
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 143アパママ島攻略
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 144タラワ島攻略とRYE攻略部隊の解隊
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2) p.60(8月27日項)〔 第十九駆逐隊(浦波 敷波)外南洋部隊ニ編入/第二十七駆逐隊(有明 夕暮)外南洋部隊ニ編入 〕
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 52–53九月二日
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 55九月六日
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 91–92敵のタイボ岬上陸
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 107a-108R方面航空部隊作戦命令
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 107b.
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 108–110ガ島偵察とガ島攻撃
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 110.
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 177輸送再開
- ^ #S1709第八艦隊日誌(2) pp.25-26〔 (2)十月一日軍隊区分(「カ」號作戰兵力部署) 〕
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 206.
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 262–263R方面航空部隊
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 344.
- ^ #S1709第八艦隊日誌(3) pp.8-10〔 (2)十一月一日軍隊区分(「カ」號作戰兵力部署) 〕
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 346.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 347.
- ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 348.
- ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 349.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 351.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 352.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 357兵力部署
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 358.
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 365挿図第20-1、砲撃目標(敵飛行場下令時(2330)の日米両軍態勢概要図
- ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 371.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 372.
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 373.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 374.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 375.
- ^ 戦史叢書83 1975, pp. 415–418東部ニューギニア方面の連合軍の作戦
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 426.
- ^ 戦史叢書83 1975, p. 440a十二月三日
- ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 440b.
- ^ #S1709第八艦隊日誌(3) pp.60-62
- ^ a b c d 戦史叢書83 1975, p. 451.
- ^ a b 戦史叢書83 1975, p. 507.
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.17(夕暮機密第011600番電)
- ^ a b c #S1712四水戦日誌(3) p.12(有明、夕暮行動)
- ^ #S1712四水戦日誌(3) pp.17-18(8Bg機密第020859番電)
- ^ #S1712四水戦日誌(3) p.76(1943年1月5日項)
- ^ #S1712四水戦日誌(3) pp.24-25(3F機密第051500番電)
- ^ #高松宮日記5巻 451頁〔 ○「陸奥」「朝潮」「電」、「横」着(一二-一〇三〇)。 〕
- ^ 戦史叢書96 1976, pp. 34a-36丙三号輸送
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 244.
- ^ a b 戦史叢書96 1976, p. 34b.
- ^ 戦史叢書96 1976, p. 35.
- ^ 五月雨出撃す 2010, p. 186.
- ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 245.
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 246.
- ^ 戦史叢書96 1976, p. 36.
- ^ #S1712四水戦日誌(5) p.33〔 8日|(天候略)|一.夕暮萩風ト共ニAdB電令作第159号ニ依ル沖鷹警戒任務ニ従事 〕
- ^ 「昭和18年3月9日(発令3月8日付)海軍辞令公報(部内限)第1065号 p.35」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089900
- ^ #S1712四水戦日誌(5) p.35〔 19日|(天候略)|一.夕暮萩風ト共ニ内海西部ニ向ケ金剛護衛任務ニ従事ス(GF信電令第133号KdB電令作第58号) 〕、#S1709三戦隊日誌(2) pp.47-48〔 一八日一二二〇3S司令官|金剛4dg(萩風)夕暮|3S信令第六九号 今次回航ニ関シ左ノ通定ム 一.4dg司令ハ夕暮ヲ併セ指揮スベシ 〕
- ^ #S1712四水戦日誌(5) p.7〔 夕暮(略)二十一日同地発佐伯着二十二日同地発 陽炎 初月 涼月ト共ニ2sf及8Sノ護衛ニ任ジツツ(GF電令第一三三號KdB電令作第五七號)二十七日「トラツク」着 〕
- ^ 戦史叢書96 1976, p. 109.
- ^ #S1801二水戦日誌(4) p.16〔 22日|一.1200 2sf、8S、61dg(涼月)夕暮15dg(陽炎)「トラック」ニ向ケ佐伯発 〕
- ^ #S1701第八戦隊日誌(5) pp.29-30〔 (ハ)作戦指導 前月ニ引続キ三月二十一日迄内地ニ在リ整備補給竝ニ諸訓練ニ従事/三月二十二日2sf司令官指揮ノ下ニ8Sヲ率ヰ内海出撃「トラツク」ニ回航二十七日着尓後同地ニ警泊待機諸訓練ニ従事 〕
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』313-314ページ、「昭和17年12年1日~昭和18年4月30日 第4水雷戦隊戦時日誌(6)」第5画像
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』314ページ
- ^ a b c #S1712四水戦日誌(6) p.7
- ^ 「昭和18.2.1~昭和18.8.14 太平洋戦争経過概要 その5(防衛省防衛研究所)18年4月1日~18年4月16日 」 アジア歴史資料センター Ref.C16120635500 p.24(昭和18年4月)〔 14|2000|夕暮(27dg)「トラツク」南方海面Tb護衛中 武庫丸(横鎭T)ト触衝(4Sd)|南洋|若干ノ損傷アリ 〕
- ^ 五月雨出撃す 2010, p. 210(1943年5月8日項)
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 328「大和」等の内地回航
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 331-332聯合艦隊司令部の内地回航
- ^ 戦史叢書96 1976, pp. 140–141.
- ^ 戦史叢書85 1975, pp. 138–139西部アリューシャンの放棄
- ^ 戦史叢書62 1973, pp. 341a-342「飛鷹」の損傷と第二航空戦隊等のトラック進出
- ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 341b.
- ^ #高松宮日記6巻 355頁
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 310a第十四戦隊の内南洋部隊への進出
- ^ 戦史叢書85 1975, pp. 121–122五十航戦の編成と作戦
- ^ a b 戦史叢書62 1973, p. 342.
- ^ a b c #S1805四水戦日誌(2) p.9〔 15日27dg(時雨)GF電令作第590号AdB電令作第218号ニ依リAdBニ復帰、16日27dg(白露欠)ハGF電令作第593号ニ依リ将旗3Sノ指揮下ノ下ニ3S、7S(最上欠)2sf(龍鳳)五十鈴 雲鷹 冲鷹 7dg 16dg(雪風)浜風 谷風 凉風 清波 新月等ト共ニ横須賀発、21日「トラック」着(将旗)2sfノ指揮ヲ解カル爾後27dg(時雨)ハ前記「ナウル」輸送任務ニ従事 〕
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 310b.
- ^ 戦史叢書96 1976, p. 233連合軍の作戦計画
- ^ 戦史叢書62 1973, p. 352連合軍の新たな反攻開始にあたり陛下の御言葉
- ^ #S1805四水戦日誌(3) p.28〔 夕暮ハAdB電令作第二三五號ニ依リ清波ト共ニ玄洋丸ヲ護衛二日一六〇〇「トラック」發五日一一三〇「ラボール」着爾後作戰ニ關シ南東方面部隊指揮官ノ指揮ヲ受ケシメラル 十九日GF電令作第六三八號AdB電令作第二四六號及KdB電令作第九六號ニ依リ4Sd(長良)ハKdB本隊ニ27dg(白露缺)ハNTBニ夫々編入セラル 4Sdハ七月二十日附2Sdニ編入ノコトトナリ十九日ヲ以テ4Sd戰時日誌ノ巻ヲ閉ヅ(終) 〕
- ^ a b 戦史叢書96 1976, pp. 228–230.
- ^ a b c d e f g h 戦史叢書96 1976, p. 245b.
- ^ ニミッツ 1962, p. 171.
- ^ a b c d e 戦史叢書96 1976, p. 247.
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, pp. 148–149〔コロンバンガラ島沖夜戦〕
- ^ a b c d e f 戦史叢書96 1976, p. 240.
- ^ a b c d e f 戦史叢書96 1976, p. 248.
- ^ ニミッツ 1962, p. 172.
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 94清波(きよなみ)
- ^ a b #高松宮日記6巻 529頁〔 ○第八艦隊参謀長(六-一五〇〇)「清波」乗組、西川水兵長(舞徴水5250)、八月五日救助(以下略) 〕
- ^ 歴群19、水雷戦隊II 1998, p. 87三日月(みかづき)
- ^ #内令昭和18年10月(4) p.8〔 内令第二千百五十九號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月十五日海軍大臣嶋田繁太郎|第四駆逐隊ノ項中「嵐、萩風、」ヲ、第十一驅逐隊ノ項中「初雪、」ヲ、第二十四驅逐隊ノ項中「江風、」ヲ、第二十七驅逐隊ノ項中「有明、夕暮」ヲ、第三十驅逐隊ノ項中「三日月、」ヲ、第三十一驅逐隊ノ項中「、清波」ヲ削ル 〕
- ^ 五月雨出撃す 2010, p. 239.
- ^ #内令昭和18年10月(1) p.11〔 内令第二千三十五號 驅逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十月一日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七驅逐隊ノ項中「時雨」ノ下ニ「、五月雨」ヲ加フ|第三十二驅逐隊ノ項中「早波」ノ下ニ「、玉波」ヲ加フ 〕
- ^ #内令昭和18年11月(6) p.21〔 内令第二千五百二十一號 駆逐隊編制中左ノ通改定セラル 昭和十八年十一月三十日海軍大臣嶋田繁太郎|第二十七駆逐隊ノ項中「五月雨」ノ下ニ「、春雨」ヲ加フ|第三十駆逐隊ノ項中「卯月」ノ下ニ「、夕月」ヲ加フ 〕
- ^ #内令昭和18年10月(3)、p.46〔 内令第二千百四十四號 艦艇類別等級別表中左ノ通改正ス 昭和十八年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎|驅逐艦、一等卯月型ノ項中「、三日月」ヲ、同初雪型ノ項中「初雪、」ヲ、同初春型ノ項中「、有明、夕暮」ヲ、同白露型ノ項中「、江風」ヲ、同不知火型ノ項中「、嵐、萩風」ヲ、同夕雲型ノ項中「、清波」ヲ削ル|潜水艦、一等伊百六十八型ノ項中「伊號第百六十八、」ヲ削ル 〕
- ^ #内令昭和18年10月(4) pp.9-10〔 内令第二千百六十一號 横須賀鎮守府在籍 驅逐艦 嵐、驅逐艦 萩風|呉鎮守府籍 驅逐艦 初雪|佐世保鎮守府在籍 驅逐艦 三日月 驅逐艦 有明 驅逐艦 夕暮 驅逐艦 江風|舞鶴鎮守府籍 驅逐艦 清波|右帝國驅逐艦籍ヨリ除カル|呉鎮守府籍 伊号第百六十八潜水艦 右帝國潜水艦籍ヨリ除カル|昭和十八年十月十五日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
- ^ 「ヘイウッド・L・エドワーズ (駆逐艦)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』。2014年7月4日(金)23:32UTC:[URL: http://ja.wikipedia.org]
- ^ 昭和9年11月2日 官報第2353号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958829 p.11
- ^ a b 昭和10年1月26日 官報第2418号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2958897 p.4
- ^ a b 昭和10年11月16日 官報第2663号。国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959142 p.11
- ^ a b 「昭和12年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(号外)第99号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ a b 「昭和13年1月12日(発令1月12日付)海軍辞令公報(号外)第120号 p.13」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073300
- ^ a b 「昭和13年12月15日(発令12月15日付)海軍辞令公報(部内限)第273号 p.28,41」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074800
- ^ a b 「昭和14年2月20日(発令2月20日付)海軍辞令公報(部内限)第303号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C13072075400
- ^ 「昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.4」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076800
- ^ 「昭和14年11月15日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第402号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「昭和18年12月1日(発令7月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1271号 p.44」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094600