奈良治二
奈良 治二(なら はるじ、1903年(明治36年)4月8日[1] - 1965年(昭和40年)7月19日[2][3])は、昭和期の農業協同組合指導者、実業家、政治家。衆議院議員。旧姓・成田。
経歴
[編集]青森県[3]北津軽郡六郷村[2]胡桃館[4](現鶴田町[4])で、成田治[注釈 1]の二男として生まれる[4]。1923年(大正12年[注釈 2])青森県立弘前中学校(現青森県立弘前高等学校)を卒業した[2][4]。
中津軽郡新和村(現・弘前市)種市の奈良家の養子となる[4]。新和村農業会長、(有) 北隆造船鉄工所取締役社長、北日本化学工業取締役社長、新和村農業協同組合長、同村農業共済組合長、青森県農業共済保険組合理事、同県利用農業協同組合連合会長などを務めた[2][3][4]。
政界では1930年(昭和5年)新和村会議員に選出された[3][4]。その他、新和村助役、同村農地委員、同村学務委員などに在任[2][3]。1947年(昭和22年)4月の第23回衆議院議員総選挙に青森県第2区から日本自由党公認で立候補して落選[2][5]。1949年(昭和24年)1月の第24回衆議院議員総選挙に民主自由党公認で出馬して当選し[2][3][4][6]、衆議院議員に1期在任した[3]。この間、衆議院農林常任委員、民自党青森県連副支部長、青森県通貨安定推進委員長などを務めた[2][4]。1952年(昭和27年)10月の第25回総選挙に出馬したが落選し[2][6]、事実上、政界の引退を余儀なくされた[2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 東奥日報社編『青森県人名事典』東奥日報社、2002年。
- 藤本一美『戦後青森県の保守・革新・中道勢力:青森県選出の国会議員』志學社、2017年。
- 『国政選挙総覧 1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。