第26回衆議院議員総選挙
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第26回衆議院議員総選挙 | |||
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内閣 | 第4次吉田内閣 | ||
解散日 | 1953年(昭和28年)3月14日 | ||
解散名 | バカヤロー解散 | ||
公示日 | 1953年(昭和28年)3月24日 | ||
投票日 | 1953年(昭和28年)4月19日 | ||
選挙制度 | 中選挙区制 | ||
改選数 | 466() | ||
議席内訳 | |||
有権者 | 満20歳以上の日本国民 | ||
有権者数 | 4709万167人 | ||
投票率 | 74.22%(2.21%) | ||
各党別勢力 | |||
党順 | 第1党 | 第2党 | 第3党 |
画像 | |||
党色 | |||
党名 | 自由党 (吉田自由党) | 改進党 | 日本社会党 (左派) |
党首 | 吉田茂 | 重光葵 | 鈴木茂三郎 |
就任日 | 1950年3月 | 1952年6月 | 1951年10月 |
前回選挙 | 240 | 85 | 54 |
選挙前議席 | 205 | 88 | 56 |
獲得議席 | 199 | 76 | 72 |
増減 | 6 | 12 | 16 |
得票数 | 1349万5704票 | 618万6232票 | 454万3202票 |
得票率 | 39.00% | 17.88% | 13.13% |
得票率増減 | 8.57% | 0.38% | 3.37% |
党順 | 第4党 | 第5党 | 第6党 |
画像 | |||
党色 | |||
党名 | 日本社会党 (右派) | 分党派自由党 (鳩山自由党) | 労働者農民党 |
党首 | 河上丈太郎 | 鳩山一郎 | 黒田寿男 |
就任日 | 1953年1月 | 1950年3月 | 1948年12月 |
前回選挙 | 57 | 新党 | 4 |
選挙前議席 | 60 | 41 | 4 |
獲得議席 | 66 | 35 | 1 |
増減 | 6 | 6 | 3 |
得票数 | 465万1345票 | 303万5412票 | 35万8773票 |
得票率 | 13.44% | 8.77% | 1.04% |
得票率増減 | 1.96% | 新 | 0.3% |
党順 | 第7党 | ||
画像 | |||
党色 | |||
党名 | 日本共産党 | ||
党首 | 徳田球一 | ||
就任日 | 1945年12月 | ||
前回選挙 | 0 | ||
選挙前議席 | 0 | ||
獲得議席 | 1 | ||
増減 | 1 | ||
得票数 | 65万5990票 | ||
得票率 | 1.90% | ||
得票率増減 | 0.64% | ||
選挙状況 | |||
| |||
< 1952年1955年 > | |||
第26回衆議院議員総選挙(だい26かいしゅうぎいんぎいんそうせんきょ)は、1953年(昭和28年)4月19日に日本で行われた国会(衆議院)議員の総選挙である。
概要
[編集]1953年1月に再開された第15国会において、吉田内閣は、野党の攻勢だけでなく、与党・自由党内部の鳩山一郎派(自由党民主化同盟)の反抗にもさらされた。おりしも2月28日衆議院予算委員会で吉田茂首相は、右派社会党の西村栄一衆議院議員の質問に対して「バカヤロー」と不規則発言。この失言は、野党および鳩山派にとって絶好の好餌となり、右派社会党は吉田首相に対する懲罰動議を提出した。現職首相に対する懲罰動議は前代未聞のことだった。
懲罰動議は3月2日に上程され、自由党から鳩山派27名に加え、広川弘禅農林大臣派30名が欠席し、賛成191票・反対162票で懲罰動議は可決された。しかし政権維持を目論んだ吉田は、日本国憲法第68条に基づき、広川農相を罷免。この吉田の動きに対し、広川派は鳩山派に合流して反抗姿勢を鮮明にした。吉田陣営と反吉田陣営の対立は先鋭化したうえ、どちらが多数派なのかが不明瞭になり、各委員会の審議はストップし、昭和28年度予算案を筆頭に130件あまりの法案が審議停止状態に陥った。
3月13日、野党は内閣不信任決議案を提出。翌3月14日衆議院本会議に上程された。同日、鳩山、三木武吉、河野一郎、石橋湛山ら鳩山派22名は自由党を脱党し、分党派自由党(鳩山自由党)を結成、不信任案に賛成票を投じた。投票結果は賛成229票・反対218票の11票差で、決議案は可決された。
これを受け吉田首相は、政治指南役の松野鶴平の助言を容れて、衆議院を解散した。結果として吉田の上記「バカヤロー」発言を発端とした衆院解散となったことから、この衆議院解散の経緯は「バカヤロー解散」という俗称で知られている。
通例では衆院選と同日に実施される最高裁判所裁判官国民審査は、前回審査からあまりに短期であったことから、審査対象となる裁判官がおらず、実施されなかった。日本国憲法施行後に行われた衆議院議員総選挙のうち、同日に最高裁判所裁判官国民審査が行われなかったのはこの時が初めてであり、2023年4月1日現在でも唯一である。
なお本選挙実施後の1953年12月に奄美群島が本土に復帰したことに伴い奄美群島選挙区(定数1)が新設され、翌年2月に補充選挙が行われたが、いずれの候補者も法定得票に達しなかったため、4月に改めて再選挙を実施した。
選挙データ
[編集]内閣
[編集]解散日
[編集]解散名
[編集]公示日
[編集]投票日
[編集]改選数
[編集]- 466
選挙制度
[編集]- 中選挙区制
- 3人区:40
- 4人区:39
- 5人区:38
- 投票方法
-
- 秘密投票、単記投票、1票制
- 選挙権
-
- 満20歳以上の日本国民
- 被選挙権
-
- 満25歳以上の日本国民
- 有権者数
-
- 47,090,167(男性:22,480,590 女性:24,609,577)
同日実施の選挙等
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
選挙活動
[編集]党派別立候補者数
[編集]党派 | 計 | 内訳 | 男性 | 女性 | 公示前 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
前 | 元 | 新 | ||||||
自由党(吉田自由党) | 316 | 196 | 85 | 35 | 194 | 2 | 205 | |
改進党 | 169 | 87 | 87 | 53 | 166 | 3 | 88 | |
日本社会党(右派) | 117 | 58 | 20 | 39 | 110 | 7 | 60 | |
日本社会党(左派) | 108 | 56 | 7 | 45 | 105 | 3 | 56 | |
分党派自由党(鳩山自由党) | 102 | 38 | 42 | 21 | 101 | 1 | 41 | |
日本共産党 | 88 | 0 | 13 | 75 | 85 | 3 | 0 | |
労働者農民党 | 12 | 4 | 1 | 7 | 12 | 0 | 4 | |
諸派 | 13 | 1 | 5 | 7 | 13 | 0 | 1 | |
無所属 | 107 | 10 | 19 | 78 | 104 | 3 | 11 | |
合計 | 1,032 | 450 | 245 | 336 | 1,010 | 22 | 466 | |
出典:『朝日選挙大観』 |
選挙結果
[編集]与党・自由党は過半数を大きく割り込む202議席(選挙直後に入党した保守系無所属を含む)となった。一方の鳩山自由党も結党時より2議席減の35議席に留まった。また、改進党も89議席から77議席と4分の1近く減らす結果となった。このように保守陣営が振るわなかったのに対し、革新勢力は軒並み好調だった。左派社会党が前回の56から72議席へ、右派社会党も6議席増となった。そして労農党は1議席増、前回0議席だった共産党も1名(51年3月に衆議院議員の除名処分を受けた川上貫一)が当選し、衆議院での議席を回復することができた。
党派別獲得議席
[編集]党派 | 獲得 議席 | 増減 | 得票数 | 得票率 | 公示前 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|
自由党(吉田自由党) | 199 | 6 | 13,495,704 | 39.00% | 205 | ||
改進党 | 76 | 12 | 6,186,232 | 17.88% | 88 | ||
日本社会党(左派) | 72 | 16 | 4,543,202 | 13.13% | 56 | ||
日本社会党(右派) | 66 | 6 | 4,651,345 | 13.44% | 60 | ||
分党派自由党(鳩山自由党) | 35 | 6 | 3,035,412 | 8.77% | 41 | ||
労働者農民党 | 5 | 1 | 358,773 | 1.04% | 4 | ||
日本共産党 | 1 | 1 | 655,990 | 1.90% | 0 | ||
諸派 | 1 | 152,050 | 0.44% | 1 | |||
無所属 | 11 | 1,523,737 | 4.40% | 11 | |||
欠員 | 0 | - | - | 0 | |||
総計 | 466 | 34,602,445 | 100.0% | 466 | |||
有効票数(有効率) | 34,602,445 | 99.01% | |||||
無効票・白票数(無効率) | 345,563 | 0.99% | |||||
投票者数(投票率) | 34,948,008 | 74.22% | |||||
棄権者数(棄権率) | 12,142,159 | 25.78% | |||||
有権者数 | 47,090,167 | 100.0% | |||||
出典:総務省統計局 戦後主要政党の変遷と国会内勢力の推移 |
- 投票率:74.22%(前回比: 2.21%)
- 【男性:78.35%(前回比: 2.11%) 女性:70.44%(前回比: 2.32%)】
党派別当選者内訳
[編集]党派 | 計 | 内訳 | 男性 | 女性 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
前 | 元 | 新 | |||||
自由党(吉田自由党) | 199 | 139 | 48 | 12 | 198 | 1 | |
改進党 | 76 | 52 | 18 | 6 | 75 | 1 | |
日本社会党(左派) | 72 | 53 | 5 | 14 | 69 | 3 | |
日本社会党(右派) | 66 | 49 | 8 | 9 | 62 | 4 | |
分党派自由党(鳩山自由党) | 35 | 27 | 7 | 1 | 35 | 0 | |
労働者農民党 | 5 | 3 | 1 | 1 | 5 | 0 | |
日本共産党 | 1 | 0 | 1 | 0 | 1 | 0 | |
諸派 | 1 | 1 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
無所属 | 11 | 5 | 2 | 4 | 11 | 0 | |
合計 | 466 | 329 | 90 | 47 | 457 | 9 | |
出典:『朝日選挙大観』 |
政党
[編集]- 1議席(1団体)
議員
[編集]当選者
[編集]自由党 改進党 日本社会党(左派) 日本社会党(右派) 分党派自由党 労働者農民党 日本共産党 諸派 無所属
奄美群島国政参加選挙当選者
[編集]鹿児島県 | 奄美 | (欠員) |
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再選挙
[編集]年 | 月日 | 選挙区 | 新旧別 | 当選者 | 所属党派 | 欠員 | 所属党派 | 欠員事由 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1954 | 4.30 | 奄美 | 新 | 保岡武久 | 自由党 | - | - | 法定得票に達せず |
出典:戦後の補欠選挙 |
補欠当選等
[編集]いずれも要件に満たなかったため、補欠選挙は実施されなかった。
年 | 月日 | 選挙区 | 新旧別 | 当選者 | 所属党派 | 欠員 | 所属党派 | 欠員事由 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1953 | - | 神奈川1区 | (未実施) | 中助松 | 分党派自由党 | 1953.7.31死去 | ||
北海道3区 | (未実施) | 田中元 | 自由党 | 1953.8.28死去 | ||||
1954 | - | 茨城3区 | (未実施) | 原彪 | 改進党 | 1954.1.23死去 | ||
東京6区 | (未実施) | 熊本虎三 | 日本社会党(右派) | 1954.2.1死去 | ||||
鹿児島2区 | (未実施) | 冨吉榮二 | 日本社会党(右派) | 1954.9.26死去[注釈 1] | ||||
東京4区 | (未実施) | 菊川忠雄 | 日本社会党(右派) | 1954.9.26死去[注釈 1] | ||||
群馬1区 | (未実施) | 金子与重郎 | 改進党 | 1954.10.9死去 | ||||
滋賀全県区 | (未実施) | 森幸太郎 | 自由党 | 1954.11.11死去 | ||||
長野3区 | (未実施) | 今村忠助 | 自由党 | 1954.12.16死去 | ||||
神奈川2区 | (未実施) | 山本正一 | 日本民主党 | 1954.12.17辞職 | ||||
1955 | - | 福島2区 | (未実施) | 河原田稼吉 | 自由党 | 1955.1.22死去 | ||
出典:戦後の補欠選挙 |
初当選
[編集]- 計47名
- ○:貴族院議員経験者
- ●:参議院議員経験者
- 自由党
-
- 12名
- 改進党
-
- 6名
- 日本社会党(左派)
-
- 14名
- 日本社会党(右派)
-
- 9名
- 中居英太郎(岩手1区)
- 井堀繁雄 (埼玉1区)
- 杉村沖治郎(埼玉3区)
- 松平忠久 (長野2区)
- 中井徳次郎(三重1区)
- 田中幾三郎(三重2区)
- 大西正道 (兵庫4区)
- 中村時雄 (愛媛1区)
- 長正路 (福岡1区)
- 分党派自由党
-
- 1名
- 始関伊平 (千葉1区)
- 労働者農民党
-
- 1名
- 久保田豊 (静岡2区)
- 無所属
-
- 4名
返り咲き・復帰
[編集]- 計90名
- 自由党
-
- 48名
- 改進党
-
- 18名
- 日本社会党(左派)
-
- 5名
- 日本社会党(右派)
-
- 8名
- 分党派自由党
-
- 7名
- 労働者農民党
-
- 1名
- 中原健次 (岡山2区)
- 日本共産党
-
- 1名
- 川上貫一 (大阪2区)
- 無所属
-
- 2名
引退・不出馬
[編集]- 計16名
- 自由党
-
- 12名
- 改進党
-
- 1名
- 生悦住貞太郎(三重2区)
- 日本社会党(右派)
-
- 2名
- 無所属
-
- 1名
- 河合良成 (富山2区)
落選
[編集]- 計121名
なお、この選挙では、第1回衆議院議員総選挙以来、連続25期63年にわたって衆議院の議席を守り続けてきた尾崎行雄(無所属)が落選した。このため、選挙後に衆議院は尾崎を「衆議院名誉議員」とする決議を行った。
- 自由党
-
- 57名
- 改進党
-
- 35名
- 日本社会党(左派)
-
- 3名
- 日本社会党(右派)
-
- 9名
- 菊地養之輔(宮城1区)
- 石井繁丸 (群馬1区)
- 松尾トシ子(神奈川1区)
- 松岡駒吉 (東京2区)
- 吉田正 (長野4区)
- 前田種男 (大阪2区)
- 田万広文 (香川2区)
- 松本七郎 (福岡2区)
- 田原春次 (福岡4区)
- 分党派自由党
-
- 11名
- 重政誠之 (広島3区)
- 労働者農民党
-
- 1名
- 石野久男 (茨城2区)
- 無所属
-
- 5名
記録的当選・落選者
[編集]- 最年少当選者 :辻原弘市(左社・和歌山2区) 30歳2ヶ月
- 最高齢当選者 :安藤正純(自由・東京1区) 76歳6ヶ月
- 最多得票当選者 :鳩山一郎(分自・東京1区) 100,610票
- 最少得票当選者 :岩川与助(自由・鹿児島3区) 26,057票
- 最多得票落選者 :平島良一(自由・大阪5区) 57,833票
- 最多当選 :星島二郎(自由・岡山2区)13回(連続)、鳩山一郎(分自・東京1区)13回
選挙後
[編集]国会
[編集]- 衆議院議長選挙(1955年3月18日 投票者数:462 過半数:232)
- 衆議院副議長選挙(1955年3月18日)
- 決選投票(投票者数:463 過半数:232)
- 原彪 (社会党左派) :226票
- 山口喜久一郎(自由党) :210票
- 無効 : 17票
- 内閣総理大臣指名選挙(1953年5月19日)
- 衆議院議決(投票者数:457 過半数:229)
- 衆議院決選投票(投票者数:397 過半数:198)
- 吉田茂 (自由党) :204票
- 重光葵 (改進党) :115票
- 無効 : 78票
- 内閣総理大臣指名選挙(1954年12月9日)
- 衆議院議長選挙(1954年12月11日 投票者数:411 過半数:206)
- 衆議院副議長選挙(1954年12月15日 投票者数:341 過半数:221)
政党
[編集]この節の加筆が望まれています。 |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 院内会派編衆議院の部』大蔵省印刷局、1990年。
- 石川真澄・山口二郎著『戦後政治史』岩波新書、2010年
- 上條末夫 (1990年3月). “衆議院総選挙における女性候補者” (PDF). 駒沢大学法学部研究紀要. 2020年2月閲覧。
- 神田広樹 (2014年6月). “戦後主要政党の変遷と国会内勢力の推移” (PDF). 国立国会図書館. 2019年10月閲覧。
- 佐藤令 (2005年12月). “戦後の補欠選挙” (PDF). 国立国会図書館. 2016年5月26日閲覧。
- 衆議院議員総選挙一覽. 第26回 - 国立国会図書館デジタルコレクション
外部リンク
[編集]- 第5次吉田内閣の成立 - NHK放送史
- 衆議院議員総選挙の定数,立候補者数,選挙当日有権者数,投票者数及び投票率(明治23年~平成17年) - 総務省統計局アーカイブ