庄司一郎 (政治家)
庄司一郎 しょうじ いちろう | |
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生年月日 | 1892年1月1日 |
出生地 | 日本 宮城県伊具郡角田町 (現・宮城県角田市) |
没年月日 | 1964年8月15日(72歳没) |
出身校 | 東北学院中退 |
前職 | 仙南日日新聞社社長 |
所属政党 | (立憲政友会→) (日本自由党→) (民主自由党→) 自由党 |
配偶者 | 庄司久代 |
選挙区 | (宮城県第1選挙区→) (宮城県全県選挙区→) 旧宮城1区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1937年 - 1952年8月28日 1953年4月19日 - 1955年1月24日 |
在任期間 | 1937年3月20日 - 1945年12月23日 |
大河原町会議員 |
庄司 一郎(しょうじ いちろう、1892年(明治25年)1月1日[1] - 1964年(昭和39年)8月15日[2])は、日本の政治家。衆議院議員(立憲政友会→日本自由党→民主自由党→自由党)。厚生政務次官。宮城県柴田郡大河原町長[1][3][4]。
来歴
[編集]宮城県伊具郡角田町(現角田市)出身[1]。庄司房治の次男[1][4]。東北学院で学び[1][4]、中退した[3]。『仙台日日新聞』『東北新聞』記者、『仙南新聞』主幹を務めた[1]。後に仙南日日新聞社、雑誌『新東北』を創刊し、社長に就任した[1]。また大河原町会議員、宮城県会議員、大河原町長などを歴任した[1]。
1937年(昭和12年)の第20回衆議院議員総選挙で立憲政友会公認で立候補して当選した。以来当選6回。1942年(昭和17年)の第21回衆議院議員総選挙(いわゆる「翼賛選挙」)では非推薦で立候補して当選した。
1946年(昭和21年)の第22回衆議院議員総選挙では日本自由党公認で立候補し当選。第2次吉田内閣の厚生政務次官、衆議院決算委員長などを歴任した[2]。1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙では自由党公認で立候補したが落選、政界を引退した。
その他、東北自由新聞社長を務めた[2]。
人物
[編集]趣味は考古学、古書蒐集[1][4]。宗教はキリスト教[4]。住所は宮城県柴田郡大河原町[4]。
家族・親族
[編集]- 庄司家
著書
[編集]- 『史伝 片倉小十郎景綱』(大正堂書店、1915年)
- 『東北之宝庫川崎村』(仙南新聞社、1917年)
- 『白石町誌』(北日本書房、1925年)
- 『角田町郷土史』(仙南日日新聞社、1926年)
- 『村田町誌』(仙南日日新聞社、1927年)
- 『町村自活と公民生活』(仙南日日新聞社、1933年)
- 『鈴木清之輔翁伝』(仙南日日新聞社、1934年)
- 『伊沢亮庵翁伝』(伊沢亮庵翁伝刊行会、1935年)
- 『時局ト青年教育論』(新興東北出版部、1939年)
- 『阿武隈川の沿革と改修運動史』(阿武隈川下流改修期成同盟会、1941年)
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録 第13版 上』人事興信所、1941年。
- 『翼賛選挙大観』朝日新聞社、1942年。
- 『新訂 政治家人名事典 明治~昭和』日外アソシエーツ、2003年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
議会 | ||
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先代 田中彰治 | 衆議院決算委員長 1954年 | 次代 上林与市郎 |