三界
仏教における三界(さんがい、梵: tri-dhātu、または梵: त्रिलोक, IAST:triloka)とは、欲界・色界・無色界の三つの世界のことであり、衆生が生死を繰り返しながら輪廻する世界をその三つに分けたもの[1]。三有(さんう)ともいう[1]。
欲界よりも色界のほうが、色界よりも無色界のほうが、いっそうすぐれた生存のしかたであると考えられており、その場所も、欲界が最下にあり、無色界が最上に位置する[2]。
三つの世界
[編集]地獄傍生鬼 人及六欲天 名欲界二十 由地獄洲異 此上十七處 名色界於中 三靜慮各三 第四靜慮八 無色界無處 由生有四種 依同分及命 令心等相續
以下の説明は、4世紀から5世紀頃にヴァスバンドゥ(世親)が著した『阿毘達磨倶舎論』(『倶舎論』)に依る。
欲界(よくかい、よっかい)
[編集]欲界(梵: kāma‐dhātu)は、欲望(カーマ)にとらわれた[4]淫欲と食欲がある衆生が住む世界[1][5][注釈 1][6]。無色界および色界の下に位置する[5]。本能的欲望(カーマ)が盛んで強力な世界[2]。八大地獄から六欲天までの領域であり、『倶舎論』においては「五趣」(5つの生存状態)地獄、餓鬼、畜生、人、天の5種の世界が欲界に属するとされる[7]。ただし、『倶舎論』を奉ずる説一切有部と対抗した中観派や、のちの大乗仏教諸派は、これらに修羅道を加えて「六道」(6つの迷える状態)とした[1][7][注釈 2]。いずれの見解においても、地下の世界と、地表の世界と、空中の世界(天界)の最下層とが、欲界に属する[2]。
色界(しきかい)
[編集]色界(梵: rūpa-dhātu)は、淫欲と食欲の2つの欲を離れた衆生が住む世界[1][注釈 3]。欲望は超越したが、物質的条件(色、サンスクリットラテン翻字: rupā)にとらわれた生物が住む境域[8]。色天や色界天ともいう[9]。有色(うしき)ともいう(欲界と色界の2界をさす場合もある)[10]。欲界の上、無色界の下に位置する[9]。
色(ルーパ)とは物質のことであり、色界とは物質的な世界という意味[1]。欲界とひとしく物質的世界ではあるが、それほどに欲望が盛んではないところを単に色界とよぶ[2]。色界には、清らかで純粋な物質だけがあるとされる[1]。欲や煩悩は無いが、物質や肉体の束縛からは脱却していない世界である[9]。四禅を修めた者が死後に生まれる世界[9]。色界は禅定の段階によって四禅天に大別される[11][12]。天界の上層は色界に属し[2]、またそれを細かく17天(経典によっては18天[注釈 4]または16天[13])に分ける。また、初禅の一部[14]と欲界を合わせて「一小千世界」と呼ぶ[15]。
なお、鳩摩羅什は『法華経』序品で、色界の最上位である色究竟天を(後述の)有頂天としている[16]。
無色界(むしきかい)
[編集]無色界(梵: ārūpa-dhātu)は、物質的なものから完全に離れた衆生が住む世界[1][17]。欲望も物質的条件も超越し、精神的条件のみを有する生物が住む境域[8]。欲界および色界よりも上位にあり[1][17] 、天界の最上層に位置する[2]。空間を超越する無色界は、厳密には色(かたち)を持たない。ゆえに、色界の上方に存在するわけではないが、便宜上三界のなかでは一番上部に置かれる[18](右図参照)。
物質が全く存在せず[1]、心の働きである受・想・行・識の四蘊だけからなる世界[17]。無色界は四天に分けられ、その最高処を有頂天(非想非非想天、非想非非想処)という[1][17][19]。
その他
[編集]以上に述べた『倶舎論』が説く「三界」では、極楽やそれに準ずる世界については説かれていない。その理由としては、この宇宙観が成立した時代にはまだ仏教に浄土思想は取り入られておらず、ゆえに三界のなかに浄土が組み込まれることはまだなかったことと、上座部にとっての最高の境地とは涅槃(ニッバーナ)、すなわち、三界から脱出して無に帰することであったことが挙げられる[20]。三界という宇宙観と浄土思想の結びつきは、大乗仏教の隆盛に伴って進むこととなった。
また『倶舎論』は、エンマを六欲天の一つである夜摩天と餓鬼界両方に置いている[21]。
一覧
[編集]無色界 | 上界天 | 非想非非想処(有頂天[23]、非想非非想処、非想天) | |||
---|---|---|---|---|---|
無所有處天[23](無所有天) | |||||
識無邊處天[23](識無辺天) | |||||
空無邊處天[23](空無辺処、空無辺天、無量空処) | |||||
色界 | 四禅天[23] | 無煩天、無熱天、善現天、善見天、色究竟天(左の5天を総称して五不還天といい、欲界及び天界には再び還らない) | |||
三禅天[23] | 少浄天、無量浄天、遍浄天 | ||||
二禅天[23] | 少光天、無量光天、光音天 | ||||
初禅天[23] | 梵衆天、梵輔天、大梵天 | ||||
欲界 (五趣) | 空居天 (居虚空天) | 他化自在天[23](他化楽天) | |||
化楽天[23](楽変化天) | |||||
兜率天[23](覩史多天) | |||||
夜摩天[23](炎摩天) | |||||
地居天 | 忉利天/ 三十三天 | 中央 善見城天 | 東方 | 影照天、智慧行天、衆分天、曼陀羅天、 上行天、威徳顔天、威徳燄輪光天、清浄天 | |
西方 | 波利耶多天、雑險岸天、谷崖岸天、摩尼蔵天、 旋行天、金殿天、鬘形天、柔軟天 | ||||
南方 | 善法堂天、山峰天、山頂天、鉢私他天、 俱吒天、雑殿天、歓喜園天、光明天 | ||||
北方 | 雑荘厳天、如意地天、微細行天、歌音喜楽天、 威德輪天、月光天(日行天)、閻摩娑羅天(閻摩那娑羅天)、速行天 | ||||
四天王天 [23] | 東方 | 持国天(提頭頼吒、ドリタラーシュトラ) | |||
南方 | 増長天(毘楼勒叉、ヴィルーダカ) | ||||
西方 | 広目天(毘楼博叉天、ヴィルーパークシャ) | ||||
北方 | 多聞天(毘沙門天、ヴァイシュラヴァナ) | ||||
游空天 (游虚空天) | 日月星宿天[24] | ||||
地居天[注釈 5] (配下夜叉) | 堅手天 | ||||
持華鬘天(持鬘天、鬘持天) | |||||
恒憍天(常驕天、常放逸天)[25][26] | |||||
地上 | 須弥山 | ||||
四大洲 | 倶盧洲 | ||||
牛貨洲 | |||||
勝身洲 | |||||
贍部洲 | |||||
傍生 | |||||
地下 | 餓鬼 | ||||
八大地獄 | 等活地獄 | ||||
黒縄地獄 | |||||
衆合地獄 | |||||
叫喚地獄 | |||||
大叫喚地獄 | |||||
焦熱地獄 | |||||
大焦熱地獄 | |||||
無間地獄 |
用法
[編集]- 『法華経』譬喩品の「三界は安きことなく、なお、火宅のごとし」というのは、迷いと苦しみのこの世界を、燃えさかる家にたとえたもの[8]。
- 「三界に家なし」とは、この世界が安住の地でないことを意味し、後には女性の不安定な地位を表す諺になった[8]。
- 「子は三界の首枷」とは、親が子を思う心に引かれ、終生自由を束縛されること[27]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i j k l m “三界(さんがい)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2020年11月19日閲覧。
- ^ a b c d e f g 櫻部・上山 2006, p. 39.
- ^ 「分別世品第三之一」『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース』第29巻、東京大学大学院人文社会系研究科、No.1558, 0040c25、2018年 。
- ^ 岩波仏教辞典 1989, p. 818.
- ^ a b c “欲界(ヨクカイ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2020年11月19日閲覧。
- ^ 分別世品第三之一 T1558_.29.0041a02 「論曰。地獄等四及六欲天并器世間。是名欲界。」(T1558以下の数字は本記事「外部リンク」掲載の大正大蔵経データベースでの行番号:以下同)
- ^ a b 定方 1973, p. 120.
- ^ a b c d 岩波仏教辞典 1989, p. 309.
- ^ a b c d “色界(シキカイ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2020年11月19日閲覧。
- ^ 精選版 日本国語大辞典『有色』 - コトバンク
- ^ 分別世品第三之一 T1558_.29.0041a14 - 22
- ^ 定方 1973, p. 60.
- ^ 分別世品第三之一 T1558_.29.0041a22 - 23「迦濕彌羅國諸大論師皆言。色界處但有十六。」
- ^ 梵衆天、梵輔天、大梵天
- ^ 定方 1973, p. 62.
- ^ 定方晟. “有頂天とは”. コトバンク. 2021年11月22日閲覧。
- ^ a b c d “無色界(ムシキカイ)とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2020年11月19日閲覧。
- ^ a b 定方 1973, p. 65.
- ^ 分別世品第三之一 T1558_.29.0041a25 - 29「無色界中都無有處。以無色法無有方所。過去未來無表無色不住方所。理決然故。但異熟生差別有四。一空無邊處。二識無邊處。三無所有處。四非想非非想處。如是四種名無色界。」
- ^ 定方 1973, p. 134.
- ^ 定方 1973, p. 153.
- ^ 定方 1973, pp. 66–67.
- ^ a b c d e f g h i j k l m 総合仏教大辞典 1988, p. 1020-1021.
- ^ 『正法念処経』卷第二十二、『三界安立圖』、『阿毘達磨大毘婆沙論』ほか。
- ^ 甲田 1989, p. 176.
- ^ 『法苑珠林』巻第二、諸天部第二、辯位部第一
- ^ “子は三界の首枷とは - コトバンク”. 朝日新聞社. 2020年11月19日閲覧。
参考文献
[編集]- 総合仏教大辞典編集委員会(編)『総合仏教大辞典』 下巻、法蔵館、1988年1月。
- 甲田利雄『校本江談抄とその研究 中巻』続群書類従完成会、1989年3月1日。ISBN 9784797106220 。2021年11月25日閲覧。
- 上山春平櫻部建 ;『存在の分析<アビダルマ>―仏教の思想〈2〉』角川書店〈角川ソフィア文庫〉、2006年。ISBN 4-04-198502-1。(初出:『仏教の思想』第2巻 角川書店、1969年(昭和44年))
- 定方晟『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』(3版)講談社、1975年7月20日。ISBN 9784061157309。
- 中村元他『岩波仏教辞典』岩波書店、1989年。ISBN 4-00-080072-8。
- 「阿毘達磨倶舍論 (毘曇部)」『SAT大正新脩大藏經テキストデータベース』第29巻、東京大学大学院人文社会系研究科、No.1558、2018年 。