富山徳潤
富山 徳潤(とみやま とくじゅん、1890年(明治23年)2月26日[1] - 没年不詳)は、日本の弁護士、政治家。太平洋戦争当時の那覇市長。沖縄戦当時は後述の理由で沖縄には不在だった。旧姓・安慶名[2]。
経歴
[編集]沖縄県那覇久米町[2]で、汝翼の長男として生まれる[1]。1909年、那覇市立商業学校(現沖縄県立那覇商業高等学校)を卒業後、糸満物産会社、鈴木商店で勤務し、鈴木商店沖縄出張所に転じて黒糖買付を担当[2]。同出張所閉鎖により実業界から法曹界を志し、那覇区書記、専売局那覇出張所雇などを経て、1915年、普通文官試験に合格して上京し淀橋専売支局で勤務[2]。その傍ら中央大学法科で学び、1918年に同大を卒業[1][2]。大蔵省銀行局に転じ、1920年、弁護士試験に合格し天野弘一法律事務所に勤務[1][2]。1923年[注 1]に帰郷して那覇市に富山法律事務所を開業した[1][2]。民事訴訟事件専門の弁護士として定評があった[2]。日本弁護士協会名誉理事、弁護士会長、司法保護委員会参与、那覇市社会教育委員、沖縄電気顧問などを務めた[1]。
那覇市議、同議長を経た後、1942年7月に崎山嗣朝の後を受けて那覇市長に就任[3]。太平洋戦争は激化していった。
1944年10月10日、那覇市への米軍による大規模な空襲が起こり(十・十空襲)、那覇市役所も焼失した[3][4]。そのため、那覇市役所は市内の焼け残った建物で業務を再開した[4]。翌1945年2月、富山は「疎開地視察」を名目に沖縄を離れ[3][4]、終戦まで沖縄に戻らなかった。那覇市役所は助役の兼島景義以下約40名の職員で業務を続けた。
4月に米軍が沖縄に上陸、戦況悪化のため、那覇市役所は機能を失い、沖縄県知事の島田叡は兼島を臨時市長に任命した[5]。その後、兼島は死亡[5]、終戦を迎える。
上述のように「疎開地視察」を名目に沖縄を離れて終戦まで戻らず、終戦後に戻っていることから「命惜しさに市長の役目を放棄し、那覇市民を見捨てて逃げた」と批判する意見が現在も根強い[要出典]。
終戦後の富山は沖縄に戻り、1947年に具志川村(現:うるま市)に居住していたことが山城善光(後、立法院議員)の日記(4月17日付)に書かれてあり[6]、沖縄建設懇談会の発起人に名を連ねていた[7][注 2]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』沖縄3頁。
- ^ a b c d e f g h 『沖縄県人事録』244頁。
- ^ a b c 『日本の歴代市長』第3巻、803頁。
- ^ a b c 『那覇百年のあゆみ:激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで』121頁。
- ^ a b 『那覇百年のあゆみ:激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで』213頁。
- ^ 山城善光「沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火 第1章 言論の自由への闘い」[小見出し欠落]<巨頭連の結集にまい進>『琉球新報』1982年3月21日。
- ^ 山城善光「沖縄戦後秘史シリーズ・荒野の火 第1章 言論の自由への闘い」志喜屋知事頭をかしげる<知事も出席を約束>『琉球新報』1982年3月25日。
参考文献
[編集]- 沖縄朝日新聞社編『沖縄県人事録』沖縄朝日新聞社、1937年。
- 『大衆人事録 第14版 近畿・中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1943年。
- 那覇市企画部市史編集室編『那覇百年のあゆみ:激動の記録・琉球処分から交通方法変更まで』那覇市企画部市史編集室、1982年。
- 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第3巻、歴代知事編纂会、1983年。