山内継喜
山内継喜 やまうち つぐよし | |
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生年月日 | 1897年1月8日 |
出生地 | 日本 福井県大野郡荒土村 (現・福井県勝山市) |
没年月日 | 1973年12月26日(76歳没) |
出身校 | 東京帝国大学法学部政治学科卒業 |
前職 | 愛知県総務部長 |
親族 | 義父・青盛喜一郎(呉市会議員) 義兄・野村直邦(海軍大臣) |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1954年10月15日 - 1962年10月14日 |
在任期間 | 1944年12月29日 - 1945年10月13日 |
官選 第28代 山形県知事 | |
在任期間 | 1940年8月24日 - 1942年7月7日 |
山内 継喜(やまうち つぐよし[1]、1897年(明治30年)1月8日[2] - 1973年(昭和48年)12月26日[3])は、日本の内務・警察官僚、政治家。官選山形県知事、陸軍司政長官、初代勝山市長。
経歴
[編集]福井県大野郡荒土村(現:勝山市荒土町境)[3]で、山内喜一郎の長男として生まれる[4]。第四高等学校を卒業[5]。1920年10月、高等試験行政科試験に合格。1921年、東京帝国大学法学部政治学科を卒業。内務省に入省し青森県属となる[4][5]。
1923年、警視庁警視となる。以後、板橋警察署長、大塚警察署長、本富士警察署長、警視庁監察官、台湾総督府事務官、青森県書記官・警察部長、岐阜県書記官・警察部長、山口県書記官・警察部長、宮城県書記官・警察部長、京都府書記官・警察部長、愛知県書記官・総務部長などを歴任[1][4]。
1940年8月24日、山形県知事(「山形県知事一覧」参照)に就任。戦時体制の整備に尽力[1]。1942年7月7日、陸軍司政長官に発令され[6]、同年8月15日、第16軍軍政監部付・ジョグジャカルタ侯地事務局長官に就任[4][7]。1944年12月29日、スマラン州知事に転任し、1945年10月13日まで在任した[8]。
戦後に公職追放となる[5]。1954年9月に勝山市が発足し、同年10月15日初代市長に就任。1958年10月に再選され市長を二期務めた。1956年、勝山市が財政再建団体の指定を受け、財政の健全化に尽力。雁が原スキー場の開設など観光資源の開発を進めた。その他、勝山市立北部中学校の開校、消防本部・消防署の設置、伊勢湾台風・第2室戸台風被害の復旧などに取り組んだ。1962年10月14日、任期満了で市長を退任[9]。
人物
[編集]趣味は碁、庭球[2][4]。宗教は真宗[2][4]。住所は福井県勝山市下元禄、東京都中野区氷川町[2]。
家族・親族
[編集]- 山内家
- 親戚
脚注
[編集]- ^ a b c 『新編日本の歴代知事』201頁。
- ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第19版 下』や36頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月4日閲覧。
- ^ a b 『広報かつやま』№212、1頁。
- ^ a b c d e f g h 『人事興信録 第14版 下』ヤ51頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2024年1月4日閲覧。
- ^ a b c 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』229頁。
- ^ 『官報』第4647号、昭和17年7月8日。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』140頁。
- ^ 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』139頁。
- ^ 『日本の歴代市長』第2巻、231頁。