島津季久

 
島津季久
生誕 応永20年(1413年)
死没 文明9年8月6日(1477年9月22日)
別名 二郎三郎
戒名 総禅寺殿柱道題橋大禅伯、総禅寺殿題橋為柱大禅伯[注釈 1]
墓所 総禅寺(姶良市帖佐)
官位 修理亮、越後守、豊後守
氏族 豊州家
父母 父:島津久豊 母:上原氏某の娘
兄弟 忠国用久季久有久豊久、僧、相良前続室、有馬氏澄室、曽井氏某の室、女子
日置久儀の娘[1]
島津忠廉平山忠康北郷数久室、加治木満久守興(起宗)、幸久、忠季、梅谷(僧)
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島津季久(しまづ すえひさ、応永20年(1413年) - 文明9年8月6日1477年9月22日))は、室町時代中期の薩摩の人。薩摩島津氏の分家、豊州家初代当主。父は島津宗家8代当主の島津久豊

島津宗家8代久豊の三男で庶子。豊州家初代当主。季久が豊後守を称したことから「豊州家」と呼ばれる。享徳年間(1452 - 1455)、兄で島津宗家9代当主の島津忠国の命で平山氏を攻め帖佐を領土とすると瓜生野城(後の建昌城)を築いた。

応仁元年(1467年)、京都応仁の乱が起きると、九州でも東西両軍に別れ争いが繰り広げられた。島津宗家第10代当主の島津立久東軍についたが、季久は西軍に属していた。他家同様どちらが勝利してもよい様にという考えからであった。

忠国・立久親子にはよく仕えたが、第11代当主である島津忠昌の時に肥後方面の戦略について忠昌と対立。帖佐で挙兵すると、本家の居城清水城に迫った。忠昌はこれにより伊集院一宇治城に避難している。しかし同じくして乱を起こした相州家島津友久が忠昌に敗れると恭順。文明9年(1477年)死去。享年65。

晩年、季久は豊州家の菩提寺として総禅寺(現姶良市)を建立したが、完成を待たずして病死する。遺骸は一時近くの雲門寺に埋葬され、完成後に総禅寺に改葬された。墓が総禅寺跡(姶良市帖佐)に現存しているが、廃寺となっており整備されていない[2]

系譜[3]

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脚注

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注釈

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  1. ^ 三国名勝図会』や『大日本史料』では法名が柱道題橋。『本藩人物誌』や『帖佐来歴』では法名が題橋為柱

出典

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  1. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 諸氏系譜 1』1989年、39頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590131/1/2 
  2. ^ 史跡”. 姶良市教育委員会社会教育課文化財係. 2024年12月1日閲覧。
  3. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集五』2004年1月、564-566頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590161/1/4 
  4. ^ 重永卓爾 編『都城島津家史料 第1巻 御先祖様御廟所御石塔御位牌調図入』都城市立図書館、1987年、150頁。doi:10.11501/9776027https://dl.ndl.go.jp/pid/9776027/1/97 
  5. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集七 西藩儒林伝巻之二』2007年2月、449頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590167/1/3 
  6. ^ 米山神社”. 鹿児島県神社庁. 2024年12月1日閲覧。
  7. ^ 鹿児島県歴史資料センター黎明館『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 伊地知季安著作史料集七 西藩儒林伝巻之三』2007年2月、476頁https://dl.ndl.go.jp/pid/13590167/1/4