工藤良一
工藤 良一 | |
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生誕 | 1896年10月2日 日本 北海道 |
死没 | 1959年1月26日(62歳没) |
所属組織 | 日本陸軍 |
軍歴 | 1918 - 1945 |
最終階級 | 陸軍少将 |
工藤 良一( くどう りょういち、1896年10月2日[1] - 1959年1月26日[1][2])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
経歴
[編集]北海道札幌市出身[1][2]。1918年(大正7年)、陸軍士官学校(30期)を卒業[1]。同期に今井武夫、小畑信良、桜井徳太郎らがいる。同年、騎兵少尉に任官。1928年(昭和3年)12月、陸軍大学校(40期)を優等で卒業。今井武夫、片倉衷、長勇、額田坦らが同期にあたる。
騎兵少佐時代の1936年(昭和11年)11月、日本陸軍の命により、井上芳佐歩兵大佐、吉松喜三歩兵少佐とともに、「機動兵団視察団」のメンバーとしてヨーロッパに出張[3]。ポーランド、ドイツ、イタリア、フランス、イギリス、ベルギーの各国をまわる[3]。軍隊や学校の見学、各国機動兵団関係当局者との会談、機械化関係文献の収集など、列強における機動兵団の実情を調査し、1937年(昭和12年)3月に帰国した[3]。
1938年(昭和13年)11月、第12軍高級参謀となり支那事変に出征[1]。翌年3月、騎兵大佐に進級[1]。1940年(昭和15年)3月、兵務局馬政課長に就任[1]。1941年(昭和16年)4月、機甲本部第二課長となる[1][2]。同年11月、関東軍第1戦車団隷下の戦車第3連隊長となり、満州の綏南に駐屯[1]。1943年(昭和18年)1月、少将に進級[1]。同年11月、第1戦車団から改編された戦車第1師団(機甲軍)隷下の戦車第2旅団長に昇進[1][2]。
1944年(昭和19年)2月、関東軍第六軍参謀長となり、満州海拉爾で十川次郎司令官の補佐に当たる[1][2]。翌年1月、支那派遣軍に編入されて華中に移り、杭州で終戦を迎えた[1]
1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 加登川幸太郎著『帝国陸軍機甲部隊―栄光少なく苦難多き生涯』、白金書房、1974年
- 福川秀樹編『日本陸軍将官辞典』、芙蓉書房、2001年。