巨勢至信

 
巨勢 至信
時代 江戸時代中期
生誕 元禄9年(1696年
死没 宝暦4年5月12日1754年7月2日
別名 通称:堪太郎、六左衛門
戒名 道任
墓所 港区の大養寺多磨霊園
官位 従五位下伊豆守縫殿頭[1]
幕府 江戸幕府 旗本
主君 徳川吉宗家重
氏族 巨勢氏
父母 父:巨勢忠善、母:西川四郎右衛門娘[1]
福島正親
女子、巨勢至忠[1]
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巨勢 至信(こせ ゆきのぶ[2])は、江戸時代中期の旗本巨勢忠善(ただよし)の嫡男。官位従五位下伊豆守縫殿頭

出自

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先祖は古代豪族巨勢氏とされる[1]巨勢利次橘氏に改めて中井氏を称したが、巨勢利清の代に至ってまた巨勢氏を称したという[1]。至信の縁戚の中で、特に著名な人物に浄円院がおり、彼女は徳川吉宗の母であり、至信の伯母に当たる[1]。また、旗本巨勢氏は、至信の父である忠善の代から紀州徳川家に仕え始めた[1]

生涯

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享保3年(1718年)、小納戸になって三河国宝飯郡に1000石を賜り、布衣の着用を許された[1]。享保4年(1719年)、以前に徳川頼宣の50回目の法會に名代として和歌山に赴いたことから従五位下伊豆守に叙された[1]。享保9年(1724年)には1000石を加増されている[1]

享保13年(1728年)に吉宗が日光山に赴いた際はこれに同行し、享保17年(1732年)には御側に昇進、三河宝飯郡と額田郡に1000石を加増され、石高は合計で5000石になった[1]

享保20年(1735年3月、徳川宗尹傅役に任じられた[2]

延享2年(1745年)からは江戸城の西城に勤めとなっている[1]

宝暦元年(1751年)、近江久道作の刀と掛軸(いずれも吉宗の遺品)を賜り、同年に務めを終えて菊間広縁詰に列した[1]。同年12月に致仕した[3]

宝暦4年(1754年)5月12日、死去した[3]。享年59[3]法名は道任[3]。墓所は大養寺[3][注 1]

系譜

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脚注

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注釈

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  1. ^ 子孫の墓所も同様である
  2. ^ 旗本。三河譜代。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 「寛政重脩諸家譜. 第8輯」による。本文は161-162頁、コマ番号は92-93頁。
  2. ^ a b 高石市史編纂会 1989, p. 593.
  3. ^ a b c d e 國民圖書 1923, p. 162.

参考文献

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