平惟仲

 
平 惟仲
時代 平安時代中期
生誕 天慶7年(944年
死没 寛弘2年3月14日1005年4月25日
官位 従二位中納言
主君 村上天皇冷泉天皇円融天皇花山天皇一条天皇
藤原兼家
氏族 桓武平氏高棟
父母 父:平珍材
母:貞氏(備中国青河郡郡司の娘)
兄弟 惟仲生昌
藤原繁子藤原師輔娘)、藤原忠信の娘
大和宣旨、道行、五節の弁
養子:忠貞藤原忠信の娘
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平 惟仲(たいら の これなか)は、平安時代中期の公卿桓武平氏高棟流、美作介平珍材の長男。官位従二位中納言

経歴

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初期の経歴

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備中国(一説では讃岐国)の郡司の娘という今で言えば「現地妻」の子として生まれるが、後に弟・生昌と共に平安京に上って大学寮に入る。康保4年(967年)に文章生となる(字は平昇)。同年5月に冷泉天皇践祚すると昇殿を許され、10月に即位すると六位蔵人として天皇に仕える。康保5年(968年右衛門少尉に任ぜられるが、翌安和2年(969年)冷泉天皇が円融天皇譲位すると判官代に任ぜられ、院司として引き続き冷泉上皇に仕えた。順調な出世の背景には祖母・藤原元姫(藤原菅根の娘・中納言平時望室)が、女官として宮中に出仕して冷泉・円融両天皇の養育係を務めていた経歴によって、外戚である時の摂政藤原伊尹との関係を持ったことが大きいとされている。

関白家の家司

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天禄3年(972年従五位下叙爵すると、美作国筑後国相模国肥後国と10年以上に亘って受領を歴任し、この間の天元3年(980年)には治国の功労により従五位上に昇叙されている。ここで、国司としての勤勉振りを伊尹の弟である摂政藤原兼家に気に入られてその家司となり、永延元年(987年)には1年で二階昇進して正五位上に叙せられるとともに、右少弁次いで右中弁と要職である弁官に抜擢され、同じく弁官を務めた藤原有国と共に兼家の耳目となって活躍する。

その後も、永延3年(989年)には三階昇進して正四位下に叙せられるとともに、権左中弁・藤原忠輔を超えて左中弁に昇格すると、永祚2年(990年)右大弁、正暦2年(991年)正月には蔵人頭ととんとん拍子に昇進する。なお、頭弁となって公卿の座を目前とした惟仲は、同年4月に従四位上を極位とした父・珍材に対して従三位贈位上奏し、許されている[1]。そして、正暦3年(992年参議、正暦4年(993年)従三位に叙任されてついに公卿に列し、地方出身者としては異例とも言うべき栄達を成し遂げた。この間の正暦元年(990年)に兼家が薨去しているが、かつて次男・藤原道兼を推した藤原有国に対して、惟仲は長男・藤原道隆を後継に推挙していたことから、兼家から執政の座を継いだ道隆からも引き続き厚遇された[2]。一方でこの時期に、兼家の異母妹にして彼の次男・道兼の前妻であり、一条天皇乳母を務めていた藤原繁子結婚している。

道長に接近

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長徳元年(995年)藤原道隆が薨じると、中関白家衰退の予兆を嗅ぎ取り、道隆の末弟である藤原道長に接近し、長徳2年(996年)に道長の閣員として権中納言に、長徳4年(998年)には中納言に至った。

長保元年(999年)には中宮大夫中宮は道隆の娘の定子)を兼務するも、落ち目の中関白家と関わる事を嫌って、僅か半年で辞任する。定子が敦康親王懐妊内裏を退出する際、定子の生家である二条邸が長徳元年(995年)夏に焼失していたため、弟の平生昌の邸宅が行啓先に選ばれた。生昌邸が選ばれたのは、兄である惟仲が中宮大夫、弟の生昌が中宮大進であった縁と推測される。当時定子に仕えていた清少納言は、この時の様子を『枕草子』に記しているが[3]、定子の世話を任された弟の平生昌が、清少納言に色々と物笑いの種にされている。これは中関白家を見限った惟仲に対する、定子側の清少納言の怒りが込められていると見られる。

長保2年(1000年)12月に定子は皇女媄子内親王)を出産するが、直後に崩御する。定子の死後にその葬儀を仕切ったのは専ら惟仲であったとされるが[4]、その意図は必ずしも明らかでない。しかし、『拾遺和歌集』には中関白家が没落した後に道隆の正室である高階貴子(「高階成忠女」)が惟仲へ贈った返歌が採録されていること、さらに貴子死後には道隆と貴子の孫の藤原道雅の舅にもなっていたことから、惟仲は引き続き中関白家と一定程度の関係を保っていたことが窺われ、惟仲が定子の葬儀を仕切ったのは中関白家との過去の関係を重視した結果によるものとも推測される。

大宰帥、失脚、急逝

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長保2年(1000年)正三位に昇叙される。長保3年(1001年)にかつての同僚で大宰大弐を勤めていた藤原有国の後を受けて、中納言兼務のまま大宰帥(もしくは大宰権帥)として大宰府に赴任した。当時、大宰帥は親王しか任じられない官職であったが、ここでは前任の大宰帥・為尊親王を他官に遷任させて惟仲が正官の大宰帥に任ぜられている。これについては、長徳2年(996年)に発生した長徳の変により大宰権帥として流された藤原伊周の肩書きを引き継ぐ形になるのを嫌ったためとも想定される[5]。赴任後、歴代の権帥や大弐が手を焼いた宇佐神宮神人達の支持も取り付けるなどの行政手腕を発揮し、長保5年(1003年)正月には従二位に叙される。

しかし、同年8月に大宰府および帥の惟仲が行った非例・非法を含む『雑事九箇条』が宇佐八幡宮から朝廷に対して言上される。朝廷はこの内容を承認して大宰府に非法停止の官符を下す一方で、宇佐神宮側が神威を背景に事実を曲げて訴えていないか督察の上で遵行するように付言した[6]。翌長保6年(1004年)3月に宇佐大宮司・大神邦利ら宇佐神宮の神職・神人ら数百名が上京して陽明門前で惟仲の苛政を愁訴する事件が発生する[7]。宇佐神宮側は、大宰府による神宮や宮司への多くの特権侵害、特に惟仲による神宮宝殿の検封を第一に訴えた。これに対して、朝廷では度々陣定が開催され、右衛門権佐・藤原孝忠ら推問使の下向が行われる[8]。一方で、惟仲や妻の藤原繁子が猛運動を試みたり、藤原道長の指示により惟仲の弟の生昌が九州に下向したほか[9]、公卿の中でも権中納言・源俊賢が推問使の派遣に反対するなど、惟仲を擁護する動きがあった。結局、宇佐神宮側の訴えは認められ、6月に惟仲の釐務停止が決定、12月28日には大宰帥を解任(後任として藤原高遠が大弐に任官)されたが、罪には問われず中納言の官職は留任となった。

しかしこれを遡る12月2日、惟仲は安楽寺参拝中にで倒れ、を痛めてしまう。その後、視力と聴力を失い、陰茎が腫れ、前後不覚となった末[10]、翌寛弘2年(1005年)3月14日[11]に秦定重宅で薨去した[12]享年61。最終官位は中納言従二位。この後、荼毘に付された惟仲の遺骨は、弟の生昌が大宰府から平安京に持ち帰った(3月22日大宰府発、4月20日京着)[13]。惟仲の急死は宇佐宮の祟りもと噂されたという[14]

また、宇佐八幡宮との騒動の最中、惟仲は壱岐島の荒馬を取る名目で、筑前国高田の牧子13人を無理やり渡島させる。さらに、牧子らが不在の間に、惟仲の雑色長であった宇自可春利が牧司の内財・雑物・馬・年貢絹14疋を略取していた。惟仲没後に筑前国守・藤原高規が牧司とともにこれを権大納言藤原実資に陳述。5月13日に春利は近江国で実資の家人に捕縛され、過状と日記を進上させられた[15]。高田牧は実資の家領であったことから[16]、この事件について高田牧における複数の指揮系統とその対立[17]、さらには惟仲の後任の高遠が実資の同母兄であったことも踏まえて、特に惟仲と実資の対立であった可能性が指摘されている(服部英雄[18]

人物

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諸大夫の父と郡司の娘との間に産まれ、幼児期は地方で育つが、その身一つで都に上り、勉学で磨いた才覚を武器に中央政界を渡り歩き、兼家道隆道長ら権力者に重用され、遂には従二位中納言にまで昇り詰めた。その出世は当時としては正に異例とも言うべきものである。

藤原兼家の家司として同僚の藤原有国と共に「左右の眼」といわれ重用された。

邸宅は左京の三条高倉にあり、一条天皇中宮藤原定子が長女(脩子内親王)を出産する時に行啓先となり清少納言も滞在したほか、一条天皇の生母・藤原詮子御所として居住し、ここで没している[19]

官歴

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公卿補任』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『日本紀略』正暦2年4月5日条
  2. ^ 江談抄
  3. ^ 『枕草子』第五段『大進生昌が家に、宮の出でさせ給ふに、』
  4. ^ 『権記』
  5. ^ 黒板[1994: 155]
  6. ^ 『石清水文書』
  7. ^ 『御堂関白記』寛弘元年3月24日条
  8. ^ 『権記』寛弘元年4月28日条
  9. ^ 『小右記』寛弘元年7月1日条
  10. ^ 『小右記』寛弘2年1月16日、2月7日、2月8日条。瀬戸まゆみ『病悩と治療』臨川書店、2022、pp.123-124
  11. ^ 『小右記』寛弘2年4月20日条。なお4月7日条では15日申刻
  12. ^ 『小右記』寛弘2年4月7日、4月20日条
  13. ^ 小右記』寛弘2年4月20日条
  14. ^ 『小右記』寛弘2年1月16日、4月7日条
  15. ^ 『小右記』寛弘2年5月13日条。服部(2008), pp.124-125
  16. ^ 服部(2008), p.120
  17. ^ 服部(2008), p.126
  18. ^ 服部(2008), p.125
  19. ^ 『朝日日本歴史人物事典』
  20. ^ 黒板伸夫「大宰帥小考」『摂関時代史論集』吉川弘文館、1980年、初出1970年
  21. ^ 『公卿補任』
  22. ^ 『御堂関白記』
  23. ^ 『日本紀略』
  24. ^ 陽明文庫本『後拾遺和謌抄』第10,哀傷550
  25. ^ 『紫式部日記』消息文条
  26. ^ 山之内恵子「後拾遺和歌集作者ノート(4)」『並木の里 第3号』1970年
  27. ^ 増淵[1972: 35]

参考文献

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